夏の宝物(3)


「ったく、あのエロ河童、話をややこしくしやがって……」
 寺院の裏山を登りながら、三蔵は呟いた。
 悟空が飛び出して行った後、三蔵は八戒の恐るべき笑顔攻撃に晒される羽目になった。はっきり言って、こういう時の八戒の相手は御免蒙る。
 タイミングを見計らって、悟浄を置いたまま、早いうちにさっさと抜け出した。
 悟浄は自業自得だ。同情するにはあたらない。
 やがて、三蔵は一本の大木に辿りついた。
「悟空」
 そして、目に鮮やかな緑を見上げて呼びかけた。
 夏の盛りで、勢いよく葉を生い茂らせた大木は下から見ただけでは、そこに誰かがいることなどわからない。だが、三蔵が声をかけると、微かに枝が揺れた。
「隠れても無駄だ。降りて来い」
 少し間があいた後、小さな声がした。
「三蔵は、俺のこと、嫌い?」
 その問いかけに三蔵の眉が寄った。そのまま、沈黙する。
「嫌いだから、抱いてくれないの?」
 問いかけの答えを待っていたのだろう。しばらく間があってから、先ほどよりももっと小さな声が聞こえてきた。
「それとこれは別だ」
 憮然とした口調で三蔵は答えた。
「でも、好きならしてくれるって言ってた」
 今にも泣き出しそうなその声に、お手上げといった気分になる。
 好きなら抱いてくれる。そう聞いたから、抱いてくれないのなら嫌いだと思う。
 単純で子供じみた考え方。頭の中にはその二つの選択肢しかないのだ。
「世の中、お前が思っている程、単純じゃねぇんだよ」
 こんな子供に対して、一体何ができるというのだろう。
「美味いもんなら、明日にでも連れてってやるよ。だから、いつまでも拗ねてないで下りてこい」
 食べ物で釣れば、悟空の機嫌はほぼ直る。だが、先ほど迎えに行った時といい、今回はどうも単純には行かないようだった。
 枝が微かに揺れたが、悟空が下りてくる気配はない。
 いつの間にか、日が傾きかけていた。ようやく暑さが引いて、少し涼気を含んだ風が渡っていく。
 さわさわと葉が鳴る音に、ひどく頼りなげな声が重なった。
「俺は邪魔?」
 その言葉に、三蔵は深いため息をついた。
 頭の中に、泣いている『コエ』が聞こえてきた。
「邪魔じゃねぇよ」
 そう答えても、『コエ』は止む気配はない。
「でも……っ」
 本当に泣いている気配もする。
 ここで『好きだ』と言えばいいのだろうか。そして『抱いてやる』と。
 だが、その本当の意味も知らない子供に対して、そんなことを言えるわけがなかった。
「悟空、俺は別に邪魔だと思っているわけでも、嫌いだと思っているわけでもない」
 噛んで含めるように言って聞かせる。
 それでも、泣いている『コエ』は止まない。
 たぶん、これ以上、何を言っても無駄だろう。
「人の感情はお前が思っているより、複雑なんだよ」
 『好きだから抱く』『嫌いだから抱かない』以外にも選択肢があることを、悟空が自分で納得しない限りは。
「悟空、俺は仕事に戻る。ちゃんと自分で下りて、戻ってこい」
 三蔵は大木に背を向けると、寺院への道を辿りだした。

 日が落ちて、夕飯の時刻もとっくにすぎ、寺院が寝静まった頃になっても悟空は戻ってこなかった。
 そして、ずっと『コエ』が響いていた。
 この『コエ』
 泣きながら呼ぶこの『コエ』には、結局、答えずにはいられなくなる。
 明るい月明かりに助けられながら、三蔵はもう一度、裏山の大木へと向かっていた。
 過保護なのかもしれない。
 そう思わなくもない。
 だが、こうやって呼ぶ時はいつも、自分ではどうしようもないくらい怖いとか寂しいとか、そういう時なのだ。
 ただ単に、僧たちに嫌がらせを受けたとか殴られたとか、そういうことではこんな風には呼ばない。
 だからこそ。
「悟空」
 大木の根元に膝を抱えるようにして、悟空は座り込んでいた。声をかけると、びっくりしたように顔をあげ、そして、ぱっと立ち上がると身を翻して逃げようとした。
 だが、三蔵の手の方が一瞬早かった。腕を掴んで、引き止める。
「どこに行くつもりだ?」
 静かな問いかけに、悟空は顔を俯けた。微かに震える肩に、唇を噛みしめて嗚咽を留めているのだとわかる。
「さんぞ……の……そばにはいられない……」
 やがて、押し殺した声が悟空の口から漏れた。
「三蔵に……嫌な思いをさせたくない」
 一生懸命抑えようとして、それでも抑えきれない涙が、すすり泣きの声とともに頬を伝わって流れ落ちる。
「俺がいつそんなことを言った?」
「だって、嫌いな……人間とは、一緒にいたくないだろうから……」
 しゃくりをあげる声が少し大きくなる。息を殺して止めようとしているのか、時々、声が聞こえなくなるかわりに、肩が大きく震える。
「俺には、あんな風に触れてくれない、悟浄みたくは……。泣いているときしか……触れてくれない。泣いてるときは違うって……。誰でも、慰めようとするからって……。ごめん……、俺のこと、嫌い……だって、気がつかなか……」
 後は言葉が出てこない。
 いつもならば、すがりついて泣いているだろうに、今は声をあげて泣かないようにするために、全身に力を入れるようにして、涙を堪えている。
 本当に嫌われていると思い込んでいるのだ。
 どうしても、あの二つの選択肢からは離れられないらしい。
 こんなに泣くまで自分を追い詰めて、それでも、自分が楽になる答えをみつけだそうとはしない。
 やるせない気持ちになって、三蔵はため息をついた。
 途端に大きく悟空の肩が震えた。
 呆れられて、捨てられるのだ。
 そんな風に思ったのだろう。
 三蔵は、掴んでいた腕を自分の方にと引き寄せた。
「嫌いではないと言ったはずだ。それに、俺がこんな風に触れるのは、泣いているときだろうが何だろうが、お前しかいない。気がついていなかったのか?」
「さん……ぞ……?」
 腕の中で驚いたような声がした。
「悟浄のは、ふざけてやったことだ。区別をつけるなら、そっちとの区別をつけろ」
 今、腕の中に閉じ込めているこの行為とは違うということを。
 嫌われている。
 そんな風に思いこむのは、きっとこの子供だけだ。
 わからないのならば。
「抱いてやるよ」
 三蔵は、悟空の耳元で囁いた。