遠い日の約束(3)


 朝の光を感じて、三蔵はふと目を覚ました。
 静かだ。
 ゆっくりと起き上がる。隣で安らかな寝息をたてている悟空をみやった。
 柔らかな唇、触れると思ったような反応を返す体。どこもかしこも甘く、いい匂いがして、悟空が意識を手放してしまうまで、何度も味わい続けた。
 しばらくその寝顔をみつめていたが、三蔵は、ふっとため息をつくと、ベッドから床にと降り立った。床に転がっている書類を見つけ出して、取り上げる。それから自分の部屋にと向かった。
 服を着て、ざっと身繕いをする。そして、先ほどの書類の保証人の欄に自分の名前を書いて、印鑑を押すと、もう一度、悟空の部屋に戻った。
 ベッドの端に腰かけて、悟空の顔を覗きこむ。
 穏やかな寝顔。もう二度と見ることもないだろう。
 サラッと髪の毛を弄ぶかのように撫でる。
 それから、その唇に柔らかく触れた。
 これが最後。
 三蔵は、書類をベッドの上におくと、静かに部屋を出て行った。

 何をするでもなく時間を潰し、ようやく昼を過ぎた頃、三蔵は家にと戻ってきた。
 もう、いくらなんでも悟空は荷物をまとめて出て行っているだろう。
 そう思った。
 鍵を開けて、家の中に入る。
 廊下を進んでいくと、悟空の部屋の扉が開いたままになっていた。
 通りがかりに目をやり。
 そして驚いた。
 悟空はまだ部屋にいた。
 一糸まとわぬ姿でベッドの上に座りこみ、じっと手元を見つめていた。
「お前……」
 三蔵の声に、悟空は振り向いた。
 問いかけるような、頼りなげな色がその瞳に浮かんでいる。
「まだ、いたのか……」
 三蔵は呟いた。
 その呟きに、悟空の目が大きく見開かれた。
 その時、三蔵は悟空の手元に書類があるのに、気がついた。
「それ、別にあいつの名前でなくてもいいだろ? 引越しの代金も出してやるよ」
 三蔵の言葉に悟空は息をのんだ。
「良かったな、願いが叶って」
 悟空の唇が震えた。
 少しは悪いと思っているのだろうか。願いを叶えるために三蔵を利用しようとしたことを。
 悟空は三蔵から視線をそらすと何も言わずに、服を身に着け出した。
 少年らしい華奢な体が、そこにつけたアトが、服に覆われて見えなくなる。
 それから、悟空は机の引き出しから何か取り出して握り締めた。俯いたまま、部屋を横切って、出て行こうとする。
「悟空」
 三蔵がその手首を捕まえた。
「忘れ物だ」
 書類を指し示す。
「それに、何も持たずに出て行くつもりか?」
「……これだけでいい」
 搾り出すような小さな声がした。握り締めた手が微かに震えていた。
「放して」
 俯いたまま、悟空が言う。
 三蔵は掴んだ手を放そうとした。
 が、放すことができなかった。
 この手を放せば、目の前の存在は永遠に消えてなくなるのだ。
 いつか手放すこと。
 ずっとそのことを考えてきたのに。この土壇場にきて、まだあがこうというのだろうか。 
「……何を持っている?」
 三蔵は、己の心に決着をつける時間を稼ごうと、悟空に話しかけた。
 が、それは予想外の反応を引き起こした。
「やだっ!」
 いきなり悟空は激しく身を捩って、三蔵の手から逃れようとした。
 そのとき、勢いあまってか、悟空の握りしめた手から、何かが綺麗な放物線を描いて飛び出した。
 カツン、と音がして床に転がる。
 小さな破片が飛び散った。
「あ……」 
 悟空は大きく目を見開いて、床に落ちたものを見つめる。
 それから、のろのろとそちらに向かい、三蔵に背を向けて、ぺったりと床に座り込んだ。
 手を伸ばして、金属の丸い輪と、砕け散ったガラスのかけらを拾い集める。
「これだけは……とりあげないで……」
 囁くかのような小さな声は微かに震えていた。
 悟空が手にしているもの。
 それには見覚えがあった。
 忘れかけていた記憶が蘇ってくる。
 あれは、悟空と会ってすぐのことだった。しつこくねだられて、近所の祭りに悟空を連れて行った。はしゃぐ悟空が足をとめたのは、安物のアクセサリーを売っている露店だった。キラキラと輝いているのが珍しかったらしい。
『お嬢ちゃん、そんなにちっこいのに、もう彼氏つきかい?』
 露店の親父が声をかけてきた。
 その頃、悟空の髪は長く、よく女の子に間違えられていた。そして、これだけ容貌が違うのだ。どう見ても兄妹には見えなかったのだろう。
『彼氏に指輪、買ってもらいなさいよ。永遠の愛の誓いに、ね』
『えいえんのあい?』
 悟空が難しそうに顔をしかめた。その可愛らしい仕草に、思わず三蔵の顔に笑みが浮かんだ。
『ずっと一緒にいるってことだ。欲しけりゃ、買ってやるよ』
 三蔵の言葉に、悟空は顔を輝かせた。
 そして、選んだ指輪。
 紫色の――三蔵の目と同じ色の小さなガラス玉がついた指輪。
 それが、今、悟空の手の中にあった。
「ずっと、一緒にいるって言葉を、楯に取ろうなんて思わない……」
 三蔵に背を向けているので、表情は見えなかったが、パタパタと涙が床に落ちていくのは見えた。
「だから……、だから、これだけ……は、とりあげ……」
 悟空は大きく身を震わせた。
 押し殺した嗚咽が聞こえてくる。
「悟空……」
 三蔵は、悟空の正面にと回りこんだ。床に膝をついて、悟空を見る。
 悟空は顔をあげ、すがりつくかのように三蔵の方に手を伸ばした。が、何かに気付いたかのように、手は途中で止まり、力なく下に落ちた。唇が震えて、更なる涙が浮かび、悟空はまた顔を伏せた。
「ごめん……、俺、三蔵のこと、考えてなかった……。どんな嫌な想いをするかなんて……。ちょっと、考えればわかったのに。甘えてた……。怒っているのもわかったし、嫌われているのもわかった……。でも……っ!」
 意を決したかのように顔をあげる。
「これだけは、とりあげないで。他のものは何もいらないから。もう二度と、三蔵の前には現れないからっ!」
 とめどなく金色の瞳から涙が流れ落ちた。