コクハク(3)


 そして次の家庭教師の日。いつもの時間に三蔵の部屋の扉を叩いたが、答えはなかった。
 あれ? と思う。
 今までこんなこと、なかった。いつでもすぐに三蔵が出てきてくれたのに。
 何度か扉をノックするが、答えはない。
 一度降りて、部屋の明かりを確認したところ、真っ暗だった。
 部屋にいないの?
 何かあった時のためにと教えてもらった携帯に電話をかける。だけど、繋がらない。
 もう一度扉の前で戻って、途方に暮れる。
 どうしたんだろう。ちょっと出かけているだけなんだろうか。
 ずるずると扉に背を預けて座り込んだ。
 しばらく待ってみよう。
 そう思った。

「悟……空……?」
 どこか呆然としたような声が響いて、目を開けた。
 あれ? いつの間にか寝ちゃったみたい。
 顔を上げると、三蔵が立っていた。
「まだ待っていたのか?」
「何、それ」
 なんだかあまりの言いように、ちょっとムッとする。
「もういないかと思った」
 こちらに向かって歩いてくる三蔵の足取りが少し怪しい。近くまでくると、アルコールの匂いが鼻をついた。
「飲んでるの?」
「悪いか?」
 持っていたバインダーらしきものを脇に抱え直し、ポケットから鍵を出して三蔵が答える。
「別に。でも、今日は家庭教師の日だよ。そんなんで教えられるの?」
 そう言ったら、三蔵はふっとちょっと可笑しそうに笑った。
「もう時間外だ」
 え? と思って、慌てて携帯を取り出して時間を確認する。デジタルの数字はもう午前0時はまわっていることを示していた。
「げっ。俺、そんなに寝てた?」
 このとこ、ずーっと忙しかったからなぁ。
「ってゆーか、三蔵、飲み会だったんなら、先に言ってよ」
 鍵と格闘している三蔵に向かって言う。
 そういえば、三蔵にだって付き合いはあるだろうに、ずっと家庭教師の日は俺のために時間を空けてくれていたんだということに今更ながらに気付く。
 そういうのがあるならちゃんと言ってくれれば、お休みにするのに。
 受験のためとかそういうのじゃなくて、留年しない成績がとれればいいんだから、そんなに切羽詰っているわけじゃないんだし。
 でも、待ちぼうけってのは、なぁ。
「急に決まったにしても、携帯に連絡くれればいいのに」
 思わず文句の一つも出てくる。
 だが、三蔵は何も答えない。相変わらず鍵と格闘している。
 見た目は全然普通なんだけど、相当酔っているのかもしれない。三蔵から鍵を取り上げて、扉を開けてあげた。
 が、三蔵は動く気配がない。ふと見ると、立ったままで目を閉じていた。
「もう、立ったまま寝ないでよ」
 とりあえず抱えて、中にと誘導する。扉を閉めて、靴を脱がせて、ベッドの方に歩いていく。
 あー、世話が焼ける。なんだってこんなことしてるんだろ。
 そう思っていたら、三蔵がよろめいた。
 げっ。
 と思った時にはもう手遅れで、二人して床にと倒れこんでしまう。バサバサと三蔵が脇に抱えたままだったバインダーから紙が零れ落ちて、散乱した。
 もうちょっと頑張ってほしかったな。ベッドまであとちょっとなのに。
 起き上がって、倒れたときに打った膝をさすりつつ思う。
 三蔵、自分で起き上がってくれるかなぁ。自分よりも背も体重もあるこの人を抱え上げる自信なんてないぞ。
 とりあえず寝転がる三蔵を起こそうと肩に手を置いたが、そのとき、散乱している紙がデザイン画であることに気付いた。
 会社で使うものだろうか。大事なものだろうに。
 拾い集めていく。
 見ようと思っていたわけではないけど、自然と目が行く。
 綺麗なデザイン。
 と、一枚のデザイン画に手が止まった。
 それは、いつかねーちゃんに見せられたデザイン画。刺繍を施したロングのドレス。
「これ、三蔵のだったんだ」
 思わず呟き声が出る。
「お前が落としたやつか」
 突然、三蔵の声がした。顔を向けると、目を開けて天井を見ている三蔵が目に入った。
 なんだろう。なんだかとっても怖い顔をしている。
「良くない、とお前が評したんだろう」
 言われたことの意味がわからなくて、一瞬、沈黙する。
 良くない? 俺がそう言った?
「三蔵、何、言って……」
「社内コンペにも口を出して、もういっぱしのデザイナー気取りか?」
 のろのろと起き上がり、こちらを見る三蔵の目になんだか嫌な光が浮かんでいた。
「いいご身分だよな。恵まれた才能、恵まれた環境。来年はイタリアに留学するって? 心配なのは留年だけなんだろう」
 三蔵は唇を歪めていった。悪意に満ちた言葉。普段の三蔵はこんな言い方しないのに。
「どうしたんだよ、三蔵。何か……」
 あったのかと続けるはずだった言葉は、突然、唇を塞がれて途切れる。
 塞いでいるのは三蔵の唇。
 何で?
 突然の出来事に、頭の中がパニックになった。
 とにかく何とか離れようと手足をばたつかせたが、背中に回った三蔵の手にもっと近くにと引き寄せられて、余計に身動きが取れなくなってしまう。
 そうこうしているうちに、唇の間を割って何か生暖かいものが侵入してきた。
 って、これ、三蔵の舌?
 口の中で蠢いている。
 いわゆるこれって、ディープキスってやつ?
 今までに経験したことのない感覚に、背中がざわざわしてきた。
 気持ち悪いんだか、気持ちいいんだか、わからない。
 そんなことより、うまく息ができなくて苦しい。
 必死になって、三蔵の背中を叩いた。
 苦しい。苦しい。苦しいんだってっ!
 するとようやく、唇が離れていった。とりあえず何よりも、大きく息を吸う。
 そうして落ち着いて、ほっとしたのも束の間、また三蔵の顔が近づいてきた。
「やっ!」
 両手で押し戻し、必死になって抗う。
 キス。
 三蔵とのキス。
 それを望んでいなかったわけじゃない。
 でも。
 これは違う。
 違うと思う。
「三蔵、目を覚ませよっ!」
 パシン、と思い切り三蔵の頬を平手打ちした。
 三蔵の驚いた顔が目に入った。
 その顔を見ると同時に、玄関に向けて走り出した。そして、後ろも振り向かず、靴を履いて部屋を飛び出した。