伝える言葉(3)
なんだか体がだるいような気がした。
無事に川を渡り、疾走するジープの後部座席で、悟空は楽なように姿勢を変えて背もたれに身を預けた。
なんのかんのと一緒に騒ぐ悟浄が、昨日八戒に散々しぼられたせいだろうか、くてっと死んだように動かないのが今はありがたかった。
「悟空、どうかしましたか?」
だが、目敏い八戒には気付かれてしまったらしい。バックミラー越しにそう聞かれた。
「ん〜、なんでもない。ちょっと寝不足」
「あぁ、それは……」
その答えを聞いて、八戒は珍しく言いよどむと、また前を向いて運転に専念する。
八戒も悟浄も隣室で何かが起こっていることにはもちろん気づいていたが、面倒臭がって部屋を覗くこともしなかった。だが、昨日の騒動は耳に入っている。
女性関係のトラブルなど、口にすれば三蔵の機嫌が悪くなるのは必定。三蔵をからかうことに楽しみを見出している悟浄とは違って、八戒も悟空もそうなることは望んでいなかった。機嫌の悪い最高僧さまほど扱いにくいものはない。だから、話はそこで立ち消えた。
悟空は目を閉じた。
寝不足、なのだと思う。
でなければ、昨日の夜、少し寒い中薄着のまま起きていたから、風邪でもひいたのか。
いずれにしてもたいしたことではない。
そして、たいしたことではないといえば。
目を閉じたまま、そっと左腕に触った。
昨日、気付かぬうちにナイフで切っていたらしい。左腕に微かに傷が走っていた。引っかいたかのようなただの赤い筋。たいしたことはないのだが、朝からズキズキと痛んでいた。
とりあえず、少し寝れば治るかも。
あまり深く考えずに、悟空は眠りへと落ちて行った。
「――空。悟空」
軽く揺すられて、悟空は眠りから覚めた。
「大丈夫ですか? どこか具合でも悪いのですか?」
目の前には心配そうな八戒の顔。
起き上がろうとして、悟空は軽く顔をしかめた。
「悟空?」
「……なんでもない」
悟空はそう言うと、辺りをきょろきょろと見回した。
いつの間にか森の中に入ったらしい。周囲には鬱蒼と生い茂る木々。だが、ジープの止まっている周囲は比較的視界が開けていた。
「今日はここで野宿?」
「えぇ。次の町までちょっとかかりそうなので。それより悟空、少し顔色が悪いようですけど……?」
「へ? 大丈夫だよ。ここ、木の陰で暗いからそう見えるだけじゃないの?」
元気だと見せるように悟空は跳ね起きた。
「野宿なら、薪を拾ってくるよ」
パタパタと駆け出していく後姿に八戒が声をかける。
「悟浄にもお願いしてありますので、二人で協力して集めてくださいね」
「わかった」
振り向きざまにそう答え、悟空は森の中へと駆けていった。
おかしい。
八戒からは見えないところまで来て、悟空は足を止めた。
眠れば治ると思っていたのに、体のだるさは抜けていない。それより、何より。
悟空はそっと服の袖を捲り上げた。
自分の腕を見て、少し息を止める。
朝、見たときには、ただ赤い線が一筋ついていただけだったのに、今はその周囲が薄く赤黒くなっていた。
先ほどからズキズキと痛むはずだ。
耐えられない、というほどの痛さではないが、朝よりは痛みは増していた。
恐る恐る触ってみる。
ほっとしたことに、触っても痛みが増すことはなかった。だが、少し熱を持っているのがわかった。
「何だろ……」
悟空は呟いた。
八戒にちゃんと言ったほうが良かっただろうか。
だが、昨日の女性に切りつけられてできた傷、なんて言えるはずもなかった。
まったく危険を感じさせない、ただの普通の女性。
それなのに傷を負わされたと知れたら。
――もうそばにはいれなくなるかもしれない。
ふるっと悟空の体が震えた。
袖を元に戻し、森の奥へと歩を進める。
強くあること。
もう、それだけしかないのに。三蔵のそばにいられる理由は。だから――。
「おや、小猿ちゃん、やっとお目覚め?」
さほど行かないうちに、声がかかった。
見ると、木々の間から悟浄が姿を現した。
「よく寝てたな。昨日は三蔵のとばっちりを受けたんだって?」
「そういう悟浄は八戒に絞られたんだろ?」
「それはお前のせいだろうが」
「なんで」
「お前がバカ正直に誘われたなどと言うもんだから」
悟浄は、そこでまじまじと悟空を見つめた。
「お前さ、ホントに興味ないわけ?」
「何に?」
「セックス」
言われた言葉に、一瞬考えるように動きを止め、それから再び悟空は歩き出した。
「お前だって、一応オトコだろ? 俺がお前くらいの時にはそういうことばかり考えてたけどな」
ぶらぶらと後をついていきながら悟浄が言う。
「……別に興味がないってわけじゃないよ」
いくつか薪になりそうな木の枝を拾ったところで、悟空がぽつりと呟いた。
「おぉ。やっぱり」
悟浄がにやっと笑った。
「んじゃ、今度、町に着いたらお前も一緒に来るか?」
そして、たぶんここに八戒がいたら『懲りもせずに』とまたお小言をくらうようなことを言い出す。
「それは遠慮しとく」
「なんで? 八戒とか三蔵を気にしてるのか? ……っと」
「三蔵」
進行方向に、三蔵の姿が見えてきた。木に寄りかかり、煙草をふかしている。
「いいご身分で」
悟浄が皮肉めいた口調で声をかける。
三蔵は面倒臭げにちらりと視線を投げると、無言のまま煙を吐き出した。
他の三人を働かせて、自分一人が悠々としていることは今に始まったことではない。
悪びれた様子はまったくなかった。
「なぁ、三蔵。俺が悟空に綺麗なお姉さんを紹介してやる、って言ったら、お前はどう思う?」
「悟浄」
何か言いかける悟空を、悟浄は目で制した。
「……別に」
しばらくして、煙とともに吐き出された三蔵の答えには、何の感情もこもっていなかった。
「それは、構わないという意味だよな?」
「俺には関係ねぇことだ」
「だ、そうだ」
悟浄は、悟空の方を向いた。
「保護者サマの許可も下りたことだし、気兼ねなく……」
「だから、遠慮しとくって。別に三蔵とか八戒とかを気にしてたわけじゃないから」
悟空はそう言うと、まっすぐに三蔵をみつめた。
「俺、そういうのはちゃんと好きな人としたい。ただ、それだけだよ」