序曲〜prelude (3)


 頼みたいことがある。

 そう言われ、ライブ会場から三蔵の車に乗って、やってきた先はどこかの家だった。
 悟空のアパートから、駅を挟んで反対側に位置する住宅街だ。あまり馴染みはないが、それでも、ここがどこかくらいはわかる。
 見慣れた道に出たときは送ってくれるつもりなのか、と思ったが、どうやら最初から目的地はここだったらしい。
 途中、メシは食ったのか? と聞かれ、悟空が首を横に振ったことで、ファミレスに寄ってきたこともあって、もう既に夜も遅くなっていた。
 周囲はしんと静まり返って、夜の闇に沈んでいる。

「あの、頼みって……」

 車庫入れをして、車のエンジンを切った三蔵に、悟空は尋ねてみるが、答えはない。無言のまま、三蔵は車から降りた。

 ここにくるまでの間、三蔵は頼み事が何なのかは教えてくれず、また、二人の間にはたいした会話もなかった。
 悟空が三蔵のことで、わかったことといえば、三蔵たちが――《ou topos》のメンバーが現役の大学生であること。つい最近、メジャーデビューをしたことくらいだ。たぶん、ファンでなくても少しでも関心がある人間ならば、誰でも知っているありきたりのことだけ。
 ただ一つ。ありきたりでないことを聞いたのは、初めて会ったときに三蔵が絡まれていた理由。
 メジャーデビューをしたときのゴタゴタだそうだ。
 本当だったら別のバンドがメジャーデビューするはずだったのに、《ou topos》が横から入ってきて邪魔をした、と難癖をつけられたらしい。
 真相はわからない。本当のところは、レコード会社の人間しか知らないだろう。
 だが、それが真実であれ嘘であれ、やるなら暴力に訴えるのではなく、曲と歌ですればいい。
 そんな風に言い切る三蔵は結構尊大な感じで、それが火に油を注いでいるのかもしれない、と悟空は思ったが、口には出さなかった。
 そして、対する悟空も、自分の話はあまりしなかった。両親は亡くなっていること。一人暮らしをしていること。現在、高校三年生であること。

 そんなことを二人でポツリポツリと話すだけで、ほとんどの時間は沈黙がしめていた。
 だが、気まずい雰囲気はなかった。
 ただ互いがそこに存在しているだけで良い。それだけで満たされる。そんな感じがした。
 少なくとも、悟空にとっては。

「降りろ」

 そんなことを考えて、助手席に座ったままだった悟空にじれたのか、三蔵が助手席のドアを開けて言った。
 悟空は慌てて車から降り、玄関へと向かう三蔵の後をついていく。
 ここは三蔵の家だろうか。
 鍵を取り出して、玄関を開ける背中を見つめながら考えた。

「あがれ」

 そう言われて靴を脱ぎ、悟空は家の中へと足を踏み入れた。
 廊下を辿り、三蔵がドアを開けたその先に。

「ピアノ……」

 悟空の口から無意識のうちに呟き声が漏れる。そして、ふらふらと引き寄せられるようにそばに寄った。

「お前、あの家には楽器はあるのか?」

 ドアを閉めた三蔵が、悟空の横に立つ。
 悟空は静かに首を横に振った。

「じゃあ、曲を作るときにどうしてるんだ?」
「あれは……遊び、だから」
「それでも、楽器は必要だろ?」

 言われた言葉に、悟空は微かに寂しげな笑みを浮かべた。

「時々、学校のピアノを、昼休みに弾かせてもらってる」
「それだけか?」
「朝と放課後は部活で使うから」

 カタン、と微かな音をたてて、三蔵がピアノの蓋を持ち上げた。
 無意識のうちに音のした方に目を向け、悟空の視線はそのままピアノの白と黒の鍵盤に吸い寄せられた。

「弾きたいなら、いつでも好きなときに弾くといい。この部屋は防音だから、それこそ昼夜問わずいつでも構わない。だが、その代わりに頼みがある」
「頼み……?」

 まるで魅入られたかのように、ピアノを見つめたまま、悟空がどこかぼんやりとした声で言葉を返した。

「8月の終わりまでに曲を作って欲しいんだが」
「作る? 曲を?」

 ふいに言われた言葉が頭に染みて、悟空はぱっと顔をあげた。

「俺が? 無理。それは、絶対、無理」
「何故?」
「何故って、だって、遊びだって言ったじゃん。そんなちゃんとした曲なんて」

 ポーン。

 三蔵が押さえた鍵が、軽やかな音を立てた。
 はっと、悟空は息を呑んだ。

「ピアノ、弾きたくはないのか?」

 三蔵は、悟空をまっすぐに見ながら言う。

 それは甘美な誘惑。
 ずっと、ずっと弾きたいと思っていた。好きなだけ。好きなときに。
 少しの間だけでも、それが叶う――?

「ひとつだけ、お願いがあるんだけど……」

 ピアノから目を離さずに、悟空は囁くように言った。

「なんだ?」
「俺の名前は、出さないで欲しい。そして、誰にも――メンバーの人にも言わないで」
「名前を出すのが嫌なら、それはそれで構わないが、だが、メンバーにはもう言ってある。あの曲をアレンジしたヤツに頼むと」
「じゃあ、口止めして。他には誰にも言わないで」

 三蔵の眉間に微かに皺が刻まれた。

「わかった」

 だが、口から出たのはその言葉だけ。
 何も聞かないで欲しいと、悟空が願っているのがわかったのだろうか。

「ありがとう」

 悟空は呟くと、そっと、鍵盤の表面を撫でるように触れた。
 カタンと椅子をひいて、腰をかけてから高さを調整し。
 そして、呼吸をするように自然に。
 悟空は音を奏でだした。


□ ■ □


 流れる音が気持ち良い。
 旋律と戯れるように、ピアノを弾いていた悟空の耳に、ドアが開く音が聞こえてきた。

「三蔵」

 にっこりと、悟空は入ってきた三蔵に笑いかけた。

「お前、いい加減にしておかないと、腕、壊すぞ」
「大丈夫」

 夏休みに入ってから、バイトに行くときと寝るとき以外は、ほぼこの家で悟空は過ごしていた。
 この家は三蔵の実家で、三蔵の養父が一人で住んでいるのだが、今は海外出張中でいないということだった。
 三蔵は別のところで一人暮らしをしており、たまに帰ってくるだけなので、家にあるものは遠慮なく使えと言われている。そして、二階の客間を自分の部屋代わりに使っても良いとも。どうせ客がくることもないから、と。

 最初は遠慮していた悟空だったが、次第に、この家で過ごす時間が多くなった。
 大好きなピアノが弾けるから。
 もちろんそれもある。だが、理由の一端に、ここにいれば三蔵に会えるから、というのもあった。
 無愛想で無口ではあるが、なぜかそばにいると落ち着いた。
 本当はあんなに綺麗な人がそばにいたら、自分とは違いすぎて、なんとなく落ち着かない気分になると思うのに。
 心臓はドキドキと鼓動を速めるし、わけもなく顔が熱くなったりするけれど、でも、三蔵の纏う空気のようなものが、ひどく心地よい。心地よくて、安心できる。

「お前の好きなプリン、買ってきた。少しは休め」
「わーい。じゃ、お茶、淹れるね」
「いいから、お前は休んでろ。俺がやるから、先に居間に行ってろ」
「はぁい」

 素直に手を止めて、悟空は居間に向かう。
 放っておけばいつまでもピアノを弾いている悟空を心配してか。
 このところ毎日のように三蔵が実家に顔を見せていた。

 毎日、会えるのが嬉しくて、居間のソファーにクッションを抱えて座った悟空は、くすっと笑い声をたてた。
 けれどそれを見られて、何故笑っているのかと、理由を聞かれたら困ると思い、慌ててクッションに顔を埋める。すぐには、笑みは消せそうになかったので。

 と、柔らかいクッションの感触に、ふいに眠気が押し寄せてきた。
 それは心地よくて、抗えず。
 重力に引かれるように、悟空の目蓋は落ちていった。


□ ■ □


 そして、お茶とプリンを置いたお盆を持って三蔵が、居間へと入っていくと。
 そこには、ソファーで寝こけている悟空の姿があった。

「……おい」

 呼びかけるが、返事はない。
 この、どこでもいつでも眠れるというのは凄いことだ、と三蔵は思う。
 ふっとため息をついて、持っていたお盆をテーブルに置くと、悟空のそばに屈み込んだ。

「プリン、いらないのか?」
「プリン……」

 寝言のように呟いて、悟空の顔がへにゃと笑顔に変わる。
 三蔵はもう一度ため息をつくと、悟空を抱き上げた。

「う……にゃ」

 さすがにそれで目が覚めたのか、悟空は、ぼーっと目を開けた。

「眠いなら、寝とけ。どうせ、ずっとピアノを弾いてたんだろ」

 ピアノを弾いていると、悟空が何もかも忘れてのめりこんでしまうのには気づいていた。
 それほど、ピアノを弾くのが楽しくて、好きでたまらないらしい。
 たぶん小さい頃から、ピアノを弾くのが当たり前の環境で育ってきたのだろう。
 それがどうしてあんな小さなアパートに一人で住んでいるのか。
 悟空は自分のことは何も語らない。

「ん……でも、バイト……夕方から……プリン……」

 眠い目をこすりつつ、悟空は起きようとする。

「起こしてやるよ。プリンは起きてからでもいいだろ。誰もとりゃしねぇから」
「……ん」

 三蔵の言葉に安心したのか、悟空はふっと体の力を抜いて、身を委ねてきた。
 すぐに寝息をたてはじめる悟空を見下ろす三蔵の顔は、知り合いが見たら誰もが目を疑うほどに穏やかだった。