序曲〜prelude (4)
それから何日かが過ぎ。
家に戻った三蔵が、いつものように真っ先にピアノのある部屋の扉を開けると、予想に反してピアノの音は聞こえてこなかった。
悟空はピアノの横に置かれている応接セットのソファーに、ドアに背を向けて座っていた。
「あ、三蔵」
振り向いた悟空が笑顔を向けてくる。
初めて会ったときから変わらぬ人懐っこい笑顔。
三蔵はソファーに近づき、背もたれに手をかけて、悟空の手元を覗き込んだ。
五線紙が散乱している。
「ちょっと、いろいろと迷っててね」
言いながら、悟空は五線紙を見比べる。
視線を落としたことで、髪がサラリと流れ、悟空のうなじが少し露わになった。
ただそれだけのことなのに、三蔵の目はそこに引き寄せられて、そのまま離すことができなくなる。
あまり日に焼けていない、白い肌。
触れたい、と。
切実に思った。
最初に会ったときから、悟空は稀有な存在だった。
他人と触れ合うことに嫌悪感を抱く三蔵に、それをまったく感じさせない存在。
それどころか、毎日のように会うにつれ、触れたいと願うようになっていた。
自分から、そんな風に思う日が来るとは思っていなかった。
だが、未だに手に残る、初めて会ったときに抱きしめた柔らかな体の感触――。
もう一度、確かめてみたかった。
そんなことを考えていたところ、出し抜けに。
「な、三蔵。この曲なんだけど……」
悟空が、三蔵を振り仰いだ。
黄金と、紫暗の瞳が出会う。
その瞬間。
心臓がドクンと一度、鼓動を跳ね上げ、そのまま動きを止めたように感じられた。
見つめあったまま、視線を動かすことができなくなってしまう。二人とも。
まるで、視線をはずした途端に、相手がかき消えてしまうのを恐れるかのように。
だが、ふと三蔵は、言葉を途中で切って微かに開いている悟空の唇に、気がついた。
ふっくらとした桜色の唇。
誘っているようだ、と思った。
そして、思った瞬間、そっと摘み取るようにキスをしていた。
ほんの短い間。
だが、柔らかな感触は確かなもの。
少し遅れて、悟空がこれ以上ないくらい目を見開いた。何か言おうとするかのように口をパクパクと開閉させたが、言葉は出てこない。それから、不意にぱっと顔を伏せた。
後ろからではもう表情を窺い知ることはできないが、だが髪から微かに覗く耳が赤く染まっている。
三蔵はソファーを回って、悟空の正面に立った。
俯いている悟空は微かに震えているようだった。
跪いて、腕をとる。悟空の体が、怯えるようにビクンと大きく跳ねた。
だが、逃げ出すような素振りは見せない。
片手で腕を掴んだまま、もう片方の手で顔をあげさせると、頬を染め、どういう表情をしたら良いかわからないといった困ったような顔がそこにあった。おずおずと三蔵と視線を合わせてくる。
三蔵は微かに笑みを浮かべると、もう一度、唇を触れ合わせた。
二度、三度と触れるだけのキスを交わし、拒絶する様子が感じられないことに、キスをもう少し深くする。
入り込んできた舌に悟空は驚いたようだったが、構わずに口内を蹂躙する。
舌を絡めとり、気がついたときには、かなり濃厚なキスをしていた。唇を離すと、悟空は力が抜けたかのようにソファーにもたれかかり、目を閉じたまま、カタカタと大きく震えて出した。
まるで怯えた小動物のようだ。
その姿は痛々しさを感じさせるほどで、同時に、思っていたよりも遥かに悟空が物慣れていなったことを、三蔵に気づかせた。キス自体、初めてなのかもしれない。
怖がらせないように、そっと手を伸ばして、震える体を包み込んだ。
「……突然、悪かった」
囁いて、宥めるように、目の上に軽くキスをする。
唇が触れたとき、悟空は微かに息を呑んだが、震えてためらうような様子を見せながらも、徐々に体を預けるように力を抜いていく。
そんな素振りがたまらなく愛しかった。
「悟空……」
安心させるように耳元で囁いて、怯えさせないように気をつけながら、三蔵は腕に力をこめた。
□ ■ □
日々は穏やかに過ぎていった。
その繰り返される日々のなか、二人でいるときに、触れ合っている機会が多くなっていた。
だが、最初のキスで、あまりにも悟空が怖がってしまったので、キスは軽く触れる程度で留まっている。
三蔵にとっては多少物足りなくもあったが、悟空は触れるだけのキスは気に入っているようだった。
というか、もともと悟空は触れてもらうことが――スキンシップが大好きのようだった。
三蔵を見るときに、悟空はたいてい笑顔を浮かべているが、手を繋いだり、抱きしめられたりすると、本当に幸せそうな顔をする。
だが、三蔵が接触嫌悪症なのをなんとなくわかっているようで、自分からは決して触れてこようとはしない。
触れたそうにすることはあっても。
別に構わないというのに、悟空なら。
触れたいと思っているのは、三蔵の方なのだから。
触れたい。
もっと触れてみたい、と。
それが、すべてを自分のものにしたい――。
そう思うまでに、たいして時間はかからなかった。
全部を、手に入れる――。
例え、キスのとき以上に怖がらせても。