39:声が聞こえる


 聞こえてきたのは――。

 三蔵は、声のした方を振り向いた。
 まさか、という思いも浮かぶが、この声を聞き違えるはずがない。
 そして、こちらに向けて、一直線に走りよってくるのは。
「……お前」
「三蔵、三蔵、三蔵っ!」
 煩いぐらいに名前を呼んで、ほとんど身を投げ出すようにして、抱きついてくるのは、大地の色の髪をした少年。
 ぎゅうっとしがみついてくる、なんだか必死の様子に、三蔵は微かに笑うと、そっと悟空の体を包みこんだ。
 まだ子供の、小さくて華奢な体。
 まるで欠けたものを埋めるように、ぴったりと腕の中におさまる。
 そして、その存在が自分の手の中にあることに、このうえもない安堵を覚える。
「さんぞ……?」
 いつにない優しげな様子に、しっかりと法衣は掴んだまま、悟空が不思議そうな表情を浮かべて顔をあげた。
 だが、三蔵と目が合うと、その表情は笑みにと変わる。
「悟空」
 名前を呼んでやると、さらにその笑みは大きくなった。
「三蔵、凄いね。閉じ込められてたのに、自分で出てきちゃったんだね」
 悟空は地面に転がっている、岩の塊に視線を向けて言う。
 それは岩牢を塞いでいた岩の一部。
 銃弾を打ち込んで脆くなったところを、三蔵が長い間をかけて、銃床で削り取って崩したもの。
「凄い。やっぱり、三蔵だ」
 閉じ込められて易々と諦めたりはしない。
「別に凄かねぇよ。これは、違うからな」
 悟空が閉じ込められていた岩牢とは。
「うん。違うけど、でも、似たようなものでしょ」
 物理的な力には弱い。
 とは言っても、普通の人間の力で簡単に突き崩せるものではない。
「やっぱり、三蔵は凄いよ」
 悟空は、嬉しそうな顔で法衣にぽふっと顔を埋めた。
「……にしても、なんでお前がここにいる? 帰りが遅いんで、迎えにきたのか?」
 いつもならば鬱陶しいとハリセンが飛んでくるところだが、今日はまったくその気配がなかった。
 優しく抱きしめられている。
 そのことに、満たされていく心。
 だけど、今は――。
「うん。でも、必要なかったかも。三蔵は約束、守ってくれるから」
 不自然でないように、にっこりと笑って悟空は三蔵の手から離れる。
 こんなにも、歓喜に震える心に、今は、何も気づかないで。
 そう思いながら。
「今から帰れば、ギリギリ今日には間に合ったね」
 夕闇がせまる空を見上げながら悟空が言う。
 離れていく悟空を、もう一度引き寄せようとする手を意志の力で封じ、同じように三蔵は夕闇を見上げた。
 ふっと息を吐き出し、そして次の瞬間には、もういつもの三蔵の表情に戻っていた。
「どうかな。それより、猿。お前、帰り道わかるか?」
 辺りを見回して三蔵が言う。
「へ? 帰り道?」
「……わかんねぇのか」
「だって、三蔵の気配を辿ってきたから。三蔵こそ、わかんねぇの?」
「気がついたら、ここにいたんでな」
「それだったら、俺だって、気がついたらここに来てた」
「お前のは違うだろ」
 スパーンと、小気味良い音が辺りに響いた。
「いってぇ。何すんだよ。三蔵のおーぼー」
「おーぼー、ぐらい漢字で言え」
 その他にもぎゃんぎゃん喚きたてる悟空を無視し、一通り辺りを見回すと、三蔵は歩き出した。
「しょーがねぇ。てきとーに帰るぞ」
「あっ、待てよ、三蔵っ」
 悟空がその背中を追いかける。
 追いかけ、横に並び。
「三蔵」
 ポケットから煙草を取り出して、三蔵に差し出した。
「あのね。ちょっといろいろあって、それ、八戒からお金を貰って買い直したもんなんだけど……」
 一瞬、三蔵は怪訝そうな表情を浮かべる。
 だが。
 何も言わずに、くしゃりと悟空の髪をかき回すと、封を切って煙草をくわえた。
 その様子に、悟空の顔に笑みが浮かんだ。
「おかえり、三蔵」
「あぁ」
 三蔵は、微かに笑って煙草に火をつけた。
 そして、二人は並んで夕日に向かって歩き出す。
 互いに満ち足りて。
 だけど、互いに心はすれ違ったまま。

 大好き――。
 声にならぬ聲が聞こえるのには、まだ少し――。


【完】