柳は緑 花は紅 (11)
その日、夕飯の時刻を過ぎても、悟空は帰らなかった。
三蔵は不機嫌な顔で夕食をそのままにしておくように命じると、煙草にと手を伸ばした。
ゆっくりと煙を吸い込む。
が。
「ちっ」
3分の1も吸わないうちに煙草を灰皿に押しつけて、自室を出て行く。
別に心配して、というわけではない。
拾って、連れ帰るまで。
頭のなかに煩く響いていた声は今はもう聞こえなくなっていたが、だが、完全に聞こえなくなってしまったわけではなかった。
なにか深刻な事態に陥るたびに、その声で呼ばれた。
三蔵、と呼ぶ声で。
前とは違って、名前を呼ぶ声で。
だからもし今回、なにかあったとしても、声が聞こえてこない限りそんなにはたいしたことではないはずだ。
食欲を満たすことが最優先事項の小猿が夕飯に帰ってこないのは、それなりの非常事態を思わせたとしても。
三蔵は表に出ると、裏山へと向かった。
冬に入ってから悟空の行動範囲は狭くなり、私室と執務室の周辺くらいしか出歩かなくなっていたが、最近、空気に潜む春の気配に敏感に反応してか、その行動範囲がまた広くなってきていた。
そんな矢先の今日の午後、三蔵の煙草が切れた。
それを見た悟空が町まで煙草を買いに行くと言い出した。
今日は綺麗に晴れていて温かく、リハビリにはちょうどいいか、と三蔵は考えた。
だから、町に行かせたのだが。
迷子になって帰れなくなっている、というわけではないようだ。
なぜか悟空の気配は裏山からしていた。
これも声同様、わかりたくてわかるわけではないのだが。
ある程度の距離ならば、悟空がどこにいるのか、なぜか三蔵にはわかってしまうのだ。
あまりにもその気配が煩いから。
三蔵はそう結論づけているが、悟空の方も三蔵の居場所がわかるということについては、うまく理由づけできないからか、知らないふりをしている節があった。
ともかく。
三蔵が、裏山への道を登っていると。
「あれ? さんぞ?」
ひどく間の抜けた声が前方からした。
スパーン。
と、三蔵は無言でいきなり悟空の頭にハリセンを打ち下した。
「いってぇな、もう。いつも、いつも。いきなり殴るなよ」
頭を押さえ、少し恨みがましく見上げてくる金色の目。
だが、月明かりを反射して輝くその目よりも、悟空が手にしているものに目がいった。
「あ、これ? はい」
三蔵が見ていることに気づいたのか、悟空は手にしているものを手渡す。
ふわり、と爽やかな香が漂った。
「で、これ」
と、さらに煙草を差し出す。
けれどまだ悟空の手元に残っているものが。
「これはダメ! 煙草屋のおばちゃんにもらったんだから」
まだ三蔵が見ているのがわかったのか、悟空はもうひとつ持っていたものを隠すように胸元にと抱え込む。
その手は掻き傷だらけで。
良く見ると、あちこち泥だらけにもなっていた。
三蔵は軽く溜息をついた。
「……もらっても、いいよな?」
その溜息をどう思ったのか、心配そうに悟空が聞いてくる。
「今日は『ばれんたいん』ってやつで、好きな人とかお世話になってる人にチョコレートをあげる日だって、おばちゃんがいってたんだ。俺、なんにも持ってなかったから、いらないっていったんだけど、あげたいと思っている人にあげるもので交換じゃないから、別にいいのよって」
「……礼はいったのか」
「うん! いった!」
受け取って良いのだと言外に言われたのを察し、悟空の表情がぱっと明るくなる。
「で、ね。その花、俺からの『ばれんたいん』のプレゼントなんだけど……。おばちゃん、チョコレートじゃなくてもいいっていってたから。でも、俺、お金は持ってないから、それで……」
一枝に紅と白の花をつけた珍しい梅の花。
どのくらい野山を探していたのだろう。
「帰るぞ」
ぽん、と軽く頭に手を置いて、三蔵は山道を引き返した。