柳は緑 花は紅 (17)
ようやく春めいた日差しのなか。
三蔵は僧正と数人の若い僧を伴い、本堂にと向かっていた。
と、突然。
その進路に、ぱっと小猿が――もとい、悟空が現れた。
三蔵以外の人間は、一様に驚きの表情を浮かべる。
あまりの素早い動きにどこから悟空が現れたのかわからず、まるでなにもない空間から急に姿を現したかのように見えたのだ。
「……本当に猿だな」
だが、近くにあった木から飛び降りたのがわかった三蔵は――正確にいえば、木の上にいるときからその気配を感じ取っていたのだが――ふっと溜息をもらすと、懐からハリセンを取り出そうとした。
「三蔵っ」
しかし、取り出す前に悟空が一気に近づいてきて、間合いがとれなくなる。
悟空は、ぎゅっ、と法衣の袂を掴み。
「俺――俺、三蔵なんて……っ」
なにやら真剣な表情を浮かべて三蔵を見上げる。
あまりにも真剣すぎて、なんだか痛々しいほどだ。
「三蔵、なんて――」
なにかをいおうとしているようだが、そこで言葉につまる。
関節が白くなるくらいに法衣がますます強く握られた。
その様子に、三蔵は軽く眉をしかめる。
と、またもや突然。
「……っ!」
声にならぬ声をあげ、ぱっと身を翻すと、悟空は風のようにその場から走り去っていった。
台風一過。
そんな言葉を思い浮かべさせるような振舞いに、その場にいた全員が呆気にとられるなか。
三蔵は軽く溜息をつくと、悟空の走り去っていった方にと足を踏み出した。
「……三蔵さまっ」
若い僧が声をあげるが、老僧正がそれを目線で制す。
人の良い笑みを浮かべて一礼をする僧正に目をやり、三蔵は改めて歩きだした。
寺院にある、一際大きな桜の木の下にいる悟空を見つけ出すのは、それほど手間ではなかった。
なにかあるたびに、悟空はこの木のところにいく。
――まるで、母親のもとに逃げ込む子供のように。
「……さんぞ」
近づく三蔵に、木の根元に座り込んでいた悟空の顔があがる。
手が伸びてきて、三蔵の法衣の袂を掴んだ。
これは不安の表れ。
「――で、今度はなんだ?」
面倒臭そうに三蔵はそういうと、幹に寄りかかるようにして煙草を取り出した。
ぽんぽん、と軽く悟空の頭を小突く。
言葉も態度も乱暴だったが――。
追いかけてきてくれた。
触れてくれた。
その事実に、ふっと悟空の表情が柔らかくなった。
「……今日は、本当とは違うことをいわなきゃいけない日だから」
ぽつり、と悟空が呟く。
「三蔵のこと――大嫌いっていおうとしたんだけど……。嘘でもいえなかった……。ちゃんといわなくちゃいけないのに」
法衣を握りしめたまま、悟空は俯く。
「――ちょっと、待て。なんだ、それは」
思いもかけない言葉に、火をつけようとしたままで三蔵の動きが止まる。
「え? 違うの? だって、今日は嘘をつかなきゃいけない日って……」
三蔵の様子に、不思議そうな表情で悟空が顔をあげる。
「――エイプリルフールか」
ようやく思い当って、三蔵は煙草を握り潰す。
「ったく、バカ猿が。なんでもかんでも信じるんじゃねぇよ。確かに今日はエイプリルフールだが、嘘を『つかなきゃいけない』日じゃない。嘘を『ついてもいい』日だ」
悟空の目が大きく見開かれた。
それを見て、三蔵はその場から歩み去ろうとするが。
悟空が掴んだままの法衣に引っ張られた。
「……じゃ、俺、『大嫌い』っていわなくてもいいの?」
「あのな。それが嘘だろうがなんだろうが、いうも、いわないも、もともとお前の自由だろうが」
「そっか」
悟空の手が法衣の袂から離れる。
その瞬間、笑みが浮かんだ。
ふぅ、と、今日何度目かの溜息をついて、三蔵は新しい煙草を取りだした。
単純な小猿になにやら吹き込んで騒動をおこさせようとした輩を探し出す必要があるが、一服するくらいの時間はいいだろう。
そう思う。
花が綻ぶような笑みの横で、三蔵はゆっくりと煙草をくゆらせた。