柳は緑 花は紅 (26)
書類を決裁している最中に急用だと呼び出され、出向いてみればたいした用事ではなく、不機嫌を隠そうともせずその場を荒々しく出てきた三蔵は。
「……」
執務室の扉を開けたところで、急に足を止めた。
一緒につき従い、戻ってくる最中、謝ったり、宥めてたりしていた若い僧が不思議に思い、肩越しに部屋を覗くと。
「……蝸牛、でしょうか」
目に入ってきたのは蝸牛。
それが蝸牛であることは問いかけずともわかるのだが、どうしてこんなところにいるのかわからずに、若い僧の口調は半信半疑なものとなってしまう。
執務室は奥の庭に面しているので窓を開けておけば虫の1匹や2匹が紛れ込むこともあるだろうが、蝸牛とは。
しかも蝸牛は、窓に貼りついているのではなく、窓から少し離れた机の上を、ゆっくりうねうねと這っているのだ。
蝸牛自体は別に珍しいものでもないのに、なんだか非日常的な感じを覚え、三蔵も若い僧も固まったように蝸牛を凝視する。
と。
パタン、という音とともに執務室の窓が開いた。
そこから顔を覗かせたのは――。
「……三蔵さま」
一瞬で、呪縛から解けたように動きだした三蔵は、若い僧が止める間もなく懐からハリセンを取り出すと、今、まさに窓を乗り越えようとしている悟空の頭に振りおろした。
「ふぎゃ」
勢いで悟空は窓の下にと落ちる。
びっくりして若い僧は駆け寄ろうとするが。
「なにすんだよっ」
受け身も取らず派手な落ち方をした割にはどこも怪我をしていないらしく、元気な抗議の声があがった。
「握り潰しちゃうところだったじゃねぇか」
それから悟空は掌を三蔵に見えるように差し出した。
そこにいるのは、蝸牛。
「やっぱりてめぇか」
スパーン、ともうひとつハリセンが落とされた。
「いってぇな。なんだよ、もう。いきなりハリセンをかますことねぇだろっ」
「そんなもんを持ち込むお前が悪い」
「そんなもんって、三蔵、これ、凄いんだぞっ」
言いつつ、悟空は殻に入ってしまった蝸牛をコロン、と机に転がした。
「ほら、こんなかに入っちゃえるんだ。で、しばらくすると出てくるんだぞ」
その瞬間を期待するかのように、わくわくとした表情を浮かべ、悟空は机の上の蝸牛を見つめる。
「ほら、な」
やがて顔を出した蝸牛に、悟空は三蔵の方を振り仰いだ。
極上の笑みとともに。
「……それは外敵から身を守るためだ。わかったら、さっさと戻してこい、猿」
「えぇ? なんで? 面白いのに」
「お前だって小突き回されたら嫌だろうが」
三蔵の言葉にちょっと悟空は考え込み。
「うん。わかった」
そういって、机の上にもともといた蝸牛も合わせて手に取ると、執務室から出て行こうとする。
「そっちじゃねぇ。ちゃんと扉から出ろっ」
窓に向かう悟空の首根っこを捕まえ、扉の方を指し示す。
口を尖らせ、窓からの方が近いのに、とぶつぶつ文句を言いながら出ていく悟空を、三蔵は眉間に皺を寄せて見送る。
だが。
先程までとは違ってちっとも不機嫌そうに見えない、と二人を見守っていた若い僧は微かに笑みを浮かべた。