変奏曲〜variation (10)


 それより少し前。

 悟空は、人で賑わう場所から少しはずれた構内を、一人歩いていた。
 さっきまでいた人で賑わっているところも『大学』なのだとわかってはいたが、もう少し『普段の大学』という雰囲気を味わいたくて。

「大学ってこんな感じなんだ……」

 ふっと息を吐き出し、悟空は微かに笑みを浮かべた。
 自分には縁のない場所だと思っていた。ここに来ることなんてないと思っていた。
 だけど、こんな風に訪れることができた。

 勉強しにくるってことではないけれど。

 でも、一生、足を踏み入れることはないって思っていたのに、『絶対ない』ということはないんだとわかった。
 それがなんとなく嬉しかった。

「きみ」

 そんなことを思いながら、野外ライブの行われるステージを目指して歩いていたところ、いきなり呼び止められた。
 本格的な冬も近いこの時期は日が落ちるのが早い。既に暗くなり始めて、そろそろ学園祭も終わりに近づき、今、歩いている道を通る人はまばらだった。だから、こんなところに知り合いがいるとは思えないが、呼び止められたのが自分だとわかる。

 悟空は声がかかった方を振り向いた。
 そこには、長い髪を後ろで一つにまとめた青年が立っていた。
 三蔵たちと同じくらいの年だろうか。

「孫悟空君だよね? 《ou topos》の曲を書いた?」

 青年の口から発せられた言葉に、悟空は軽く驚きの表情を浮かべる。

「あ、ごめん。いきなり。僕は道雁といいます。呉道雁。今度、《ou topos》に曲を提供することになって……ちょっと悩んでいたところで。そうしたら、偶然、君を見かけたものだから、相談にのってもらえたらと思って」
「相談……? 曲って……?」
「《ou topos》では、君が作った曲が思いのほか評判が良かったから、ちょっと外部の人間に曲を書いてもらうのを試してみようかという話になったんだそうだよ。で、僕に依頼が来たんだ。同じ学校っていうよしみもあるし、ずっと彼らを見てきて、彼らのことをよくわかっているからって。すごい光栄な言葉だったから、すぐに引き受けちゃったけど、煮詰まっちゃってね。君にアドバイスしてもらえたら嬉しいなって思って、声をかけたんだけど。あ、時間はとらせないよ。もうすぐライブが始まるし。僕も会場に行くから、それまでの間でいいんだ」

 青年は一気にそう言うと、促すように歩き出す。悟空はなんとなくその後をついていった。

「あの……俺が曲を作ったことは、誰から……?」
「あ、三蔵さん。君の曲のことで、前に相談を受けたんだ。今までの曲とかなり毛色が違うだろ? 大丈夫かな、って迷ってたみたいで。結局、アルバムに入れることにしたけど、だいぶ心配してたよ」
「心配……?」

 悟空は呆然と呟く。
 曲ができたと言ったとき、喜んでくれた。
 だけど。
 本当は気に入ってなかった……?
 目の前が暗くなっていく心地がした。

「そう。だいたいあの曲、歌う人のこと、あまり考えてなかったでしょ? けっこう辛い音の運びだし」
「でも……。でも、三蔵なら歌える。歌えてた」

 最初に見せたとき、ピアノに合わせて一緒に歌ってくれた。
 あのときに奏でたピアノと声のハーモニー。
 重なる音と声が、凄く綺麗だと思っていたのに。

 あれは……。
 あれは、自分だけがそう思ったこと……?

「君、三蔵さんのこと、呼び捨てにしてるの?」

 混乱していたところ、突然、冷たい怒りを含んだ声が聞こえてきた。
 悟空は顔をあげ、そして、青年の表情が先ほどまでの温厚なものから豹変しているのに気がついた。
 足を止める。

 なにかがヤバイ、と思った。

 だいたい、三蔵があの曲のことで心配したりするはずはないのだ。
 あのとき。
 三蔵は優しく抱きしめてくれたのだから。
 それは気に入ってくれたという確かな証。

 悟空は、ものも言わずにくるりと向きを変えようとした。

「どこにいくの?」

 だが、一瞬遅く、手首をとられた。

「離せよっ!」

 振り解こうとするが、掴まれた手の力が異様に強い。

「君、なにか勘違いしているんじゃないの? 三蔵さまに取り入って、曲を書いただけじゃなくて、当然のようにそのそばにまとわりついて。君のような人間が、三蔵さまにふさわしいとでも思っているの?」

 青年の目には、狂気じみた怪しい光が浮かんでいる。
 さきほどの温厚な表情は幻かと思うくらい。

「ふさわしいとか、ふさわしくないとか、そんなの、わかんねぇよっ」

 なおも手を振り解こうとしながら悟空は、きっとした視線を向けて鋭く言い放った。

「三蔵がいやだって言うんなら、すぐにでも消えるよ。だけど、それを決めるのは三蔵だ。あんたじゃない」

 この場で挑発するような言葉を言っても逆効果だとわかっていたが、止まらない。
 二人は一瞬にらみ合う。
 そして。

「本当に、生意気だね」

 微かに青年の口元に笑みが浮かんだ。