旋律〜melody(16)



暗くなるまで待って、カーテンの隙間から外の様子を窺うと、人影はどこにも見えなかった。用心していろんなところから覗いてみるが、やはりあの二人組の姿は見えない。
悟空はほんの少しだけ安堵の溜息をつくと、少量の身の周りのものだけを詰め込んだバッグを手に裏口からそっと出る。
細い路地を通り、広い道にぶつかるそのところで。


「すみません。孫悟空さんですよね」


いきなりバタバタという足音がしたかと思うと、人影が現れた。
驚く。突然のことで、頭が真っ白になる。


「ちょっとだけお話を聞かせていただけませんか?」


どこに隠れていたのだろう。
悟空の家からこの辺は意外とちゃんと見えるはずなのに。
だが、いまはそんなことを考えている場合ではない。


「お手間は取らせませんから」


笑顔で話しかけてくる相手の横を、悟空は無言のまま通り過ぎようとする。
ひとことでも答えれば、何倍も返ってくる。
相手の言っていることも自分の言いたいことがわからないくらいに。
それはずっと前に経験したこと。

経験したのは自分ではなくて――母だったが。

それをもっと下の視線で見ていた。
苛めないで、と思った。
これ以上、お母さんを苛めないで――。


「本当に少しでいいんです」


だからそんなことを言われても、足早に、ほとんど駆けるようにして抜け出そうとしたのだが、腕を掴まれた。
反射的に振り解くと、手にしていたバッグが弧を描いて飛んでいった。持っていたことをすっかり忘れていた。

一瞬、悟空も記者もその行方を追う。
が、悟空の方が立ち直りが早かった。
バッグがどこに飛んでいくのか、見極めもせずに駆け出す。今度は本気で。


「待ってくださいっ!」


追いかけてくるのを、細かく角を曲がりつつ撒こうとする。
土地勘はこちらの方があるし、足には自信があった。

走る。
とにかく走る。

やがて公園が見えてきた。
どこをどう走ってきたかもうわからなくなってしまったが、ものすごく遠回りしたようだ。


一瞬、どうしようかと迷うが、軽く後ろを確かめるとだれも見えなかった。
悟空は素早く公園の真ん中にある滑り台の下にと身を潜めた。
中心の広くなっているところで、窪みの方に身を寄せて小さくなり、外から見えないようにする。

と、ほどなくして、バタバタという足音が聞こえてきた。
公園の横を通り過ぎ、さらに奥に――海の方に向かっていく。

悟空は、緊張して身を固くしていたが、やがて足音が小さくなって聞こえなくなると、ほっと息をついた。
が、安心するのはまだ早いかもしれない。
いつまでも悟空の姿が見えないとなると、また戻ってくるかもしれないし。
とりあえずそのまま影に潜んで、耳に神経を集中させる。

と、予想通り、しばらくしてまたバタバタという足音が聞こえてきた。
また通り過ぎていく……と思いきや、少し先で足音が止まった。


「なんだよ、どうした?」

「……あのな、俺はお前と違って、重い機材を背負ってるんだぞ」


荒い息をつきつつ言う言葉に、チッと舌打ちの音がした。


「先、行くぞ。電車に乗られたらアウトだ」

「あぁ」


ひとつが走り出し、もうひとつは歩いていったのだろうか。
バタバタという足音はひとつのようで、もうひとつは聞こえない。
が、その後はなんの音もせず、辺りはしんと静まり返った。

悟空はじっと息を殺したままで、耳にだけ意識を集中させる。
どのくらいそうして緊張したままで隠れていただろうか。もうだいぶ時間が経っているはずだ。
あれから足音はまったく聞こえてこない。もう大丈夫かもしれない――。
悟空はゆっくりと息を吐き出し、手足の緊張を解いていく。
ふっと肩から力が抜けた。

駅、と言っていた。
さきほどの二人組の会話を思い出す。
あの二人は、悟空が自分達を撒いて、駅に向かったと考えたのだろうか。
常識的に考えて、それは当然のことかもしれない。悟空も最初は家を出て、駅に向かうつもりだったのだし。
闇雲にその辺を探し回るよりも効率的だろう。
だとするとかなりの確率で、もうここには来ないのではないだろうか。

悟空は、ほぉっと今度はさきほどよりも大きく息をついた。
少し安堵するが、でも問題はなにも解決していないのだ、ということにも気づく。
身の周りのものを詰めたバッグはさっきどっかにやってしまった。
幸い、財布はジーンズのポケットに入れておいたから、大丈夫といえば大丈夫だが。

それにしてもなんで――。
なんでいつもこんな風になるのだろう。


――これは罰なのだろうか。


ザザン、といままであまり気にとめていなかった波の音が大きく響いた。
ビクッと悟空は身を竦め、また手足を丸めて小さくなった。

これからどこに行くというあてがあったわけではない。
というよりも、これからどうやって生きていけばいいのだろうか、と思ってしまう。
頼るあても伝手もない。

差し伸べてくれた手はあったけど、迷惑をかけることしかできなかった。
ずっとこんなことの繰り返しなのだろうか。

これは罰なのだろうか――。
ひとりだけ、生きることを選択した――。


「疲れ……ちゃった、な……」


悟空は小さく呟いた。
生きることを選択したのだから、どんなに辛くても生きて行かねばと思ってきたけど。


「お母さん……」


寄せて返す波。
その音が記憶を誘う。

暗くてよく見えてはいなかったけど、でも波の音は耳に煩く響いていた。
すぐ近くで。

強く掴まれた腕が痛い。
普段では考えられないほど強い力で、どんどんと引っ張られていった。

体の両脇を流れる水は凍えるくらいに冷たく。
どんどんと深くなっていくのが感じられ。
だけど、それ以上に感覚は恐怖に支配されて。

怖くて、怖くて、ただ怖くて、それで――。



悟空はぎゅっと目を瞑った。


振り返ったときの悲しそうな顔。
悲痛に歪む顔が、それでも目の前に浮かびあがる。

どうして? と問いかけてられた気がした。



悟空はぐっと唇を噛みしめた。


もしかしてお母さんはわかっていたのだろうか。
こうなることを。
だから。
だから、あのとき、一緒に、と――。
こんな風になることをわかっていたから、お母さんは――。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


泣きながら謝る。小さな子供のように。
もう許してはくれないだろうか。
もう『大丈夫』と言って抱きしめてはくれないだろうか。


「お母さん……」


滑り台の下から這い出て、ふらりと悟空は立ち上がった。