夏の宝物(4)
灯りを落としたままの寝室。部屋に差し込む青白い月の光が、余計に濃い影を作り出し、昼間とは違う秘めやかな雰囲気を醸しだしていた。
そっと抱きしめると、悟空は安堵したかのようにふっと息をついた。
それでわかった。
たぶん『抱いて』は『抱きしめて』のことだったのだろう。
だが。
ここで押し留めることはできなかった。
安心して身を任せている悟空の頬に片手で触れて、三蔵はその顔を自分の方にと向けさせた。目が合うと、悟空は無邪気に笑った。
この笑顔を見るのはこれが最後かもしれない。
頭の隅をそんな考えが過ぎった。
笑みを形作っている唇に、軽く唇を重ね合わせた。触れて、すぐに離れる。
びっくりしたような、何が起こったのかわからないといった表情を浮かべる悟空の顔が目に入る。
三蔵は、予想通りの反応に微かに笑みを浮かべた。それは、自分がこれからしようとしていることへの自嘲的なものが、多分に含まれていた。
もしかしたら、この腕の中の存在を永遠に失うかもしれない。
きっと予想もしていないだろうから。『抱く』という本当の意味を。
それを知ったときに、この子供はどうするだろうか。
泣くだろうか。詰るだろうか。恨むだろうか。
三蔵は、もう一度、悟空の唇に触れた。触れるだけだが、今度は少し長めに。何が起こっているか、ちゃんとわかるくらいに。
「さんぞ……?」
唇を離すと、戸惑ったような声が聞こえてきた。
構わずに、また口づけた。何度も、何度も、触れるだけの柔らかいキスを繰り返す。
三蔵の胸に置かれていた悟空の手が、まるで何かにすがるかのように、法衣を掴んでぎゅっと握られた。
それに呼応するかのように、触れるだけから、もう少し深いキスにと種類を変えていく。ついばむよう触れて、舌で舐める。
「ん……」
やがて、押し殺したような甘い声が悟空の唇から漏れた。
顔をあげると、月明かりの中でも悟空の頬が上気しているのがわかった。赤く染まった頬と、揺らめく金色の瞳。
こちらを見つめ、何か言おうとして口を開けたところに、また口づける。今度は深く、悟空の口内へと舌を滑り込ませる。
驚いたかのように、悟空の体が震えた。そして、逃げようとする素振りを見せたが、三蔵は腕に力を込め、その動きを封じた。
本当は、こんな風に腕の中に閉じ込めても、悟空ならば簡単に逃げ出すことができる。華奢な体のどこにそんな力があるのか、総じて身体能力は三蔵よりもかなり高い。
だが金鈷が外れて暴走しているときは別として、今までに一度も三蔵に対してはその力を使ったことはない。
抵抗することがあったとしても、今のように普通の人間の力の範囲内だ。無意識のうちに力を抑えているのだろう。
それがわかっていてなお、こんなことをするのは狡いやり方なのだろう。
三蔵は唇を離して、もう一度悟空を見つめた。
何か訴えかけるような、泣きそうな顔で悟空が見つめ返してくる。だが、そんな表情を浮かべながらも、その目が逸らされることはない。
頬に置いた手を優しく撫でるように滑らせると、三蔵は更に深く悟空に口づけた。まるで何もかもを奪いつくすかのように。
その激しさに翻弄されるかのように、悟空の目から涙が零れ落ちた。
悲しくて泣いているのではない。
どうして涙が出てくるのか、よくわからない。
というよりも、今、自分の身に起っていること自体、何が何だか悟空にはわからなかった。
唇が触れてくるたびに、今までにない感覚が体の奥から湧き上がってくるようだった。
甘くて、痺れるようで、切ないような、でも、本当のところは言葉に表すこともできない、そんな感覚。
眩暈を起こしそうだったが、それは決して嫌なものではなかった。
だが、今は――。
体から力が抜けていく。唇が離れて、支えるかのように腰に回った手に力が入って、もっと近くにと引き寄せられた。
間近に迫る深い紫の瞳。
悟空は息をのんだ。
月明かりのせいだろうか。それとも。
その目には今までにない色が浮かんでいるような気がした。
三蔵、なの……?
ふと胸に浮かぶ想い。
まるで知らない人を見ているようだった。
混乱しているうちに、背中に柔らかいものがあたった感触がした。気がつくと、ベッドに仰向けに寝ていた。見下ろしてくる三蔵。
「さん……」
名前を呼ぼうとしたところ、三蔵が覆いかぶさってきた。
頬に三蔵の柔らかい髪があたったと思ったところ、首筋に熱を感じた。
「あっ」
思わず体が震える。まるで、触れられたところから体中に電流が走ったかのようだった。
物理的に熱いわけではない。
だが、その感触はまるで火に触れたようで、悟空は身を竦めた。
三蔵。三蔵。三蔵。
その感触を与えているのは三蔵だとわかっているのに、まるで助けを呼ぶかのように悟空は頭の中で繰り返し、三蔵の名前を呼ぶ。
声が聞こえたのだろうか。不意に三蔵が身を起こした。
見下ろしてくる三蔵の綺麗な顔。
普段ならば、こちらを見てくれたことに、ただ嬉しいと思うのに。
そこに浮かぶ表情はまるで別人のようで。
急に。
怖くなる。
「さん……ぞ……」
それでも、震えながら呼ぶ名前はそれしかなく。
悟空の目から、今までとは違う涙が溢れ出してきた。
と、突然、腕を掴まれて起こされた。そのまま勢いで三蔵の胸に抱きとめられる。
優しく頭を撫でられた。それはよく知っている優しい手の感触。
悟空は顔をあげた。
「三蔵……」
見つめる先には、いつも通りの三蔵がいた。
悟空は、安心したかのように笑みを浮かべた。そして、三蔵の背中に手を回すと、そのまま胸に顔を埋めた。
三蔵だ。
嘘のように不安が消えてなくなる。
頭を撫でてくれる優しい手の感触に、大切にされているような気になる。
大切に。
悟空はもう一度、顔をあげた。
もしかして、三蔵はこんな風に泣くのをわかっていたのだろうか。
だから。だから――。
「三蔵」
見上げるその顔からは、先程の表情は窺い知れないけれど。
確かに見せたあの顔は、全然知らないもので。
まだ自分に知らない表情が潜んでいるのかと、悟空は思う。
怖かった。
だけど、三蔵は三蔵なのだ。
いつも優しい。そして、いつも大切に思っていてくれる。
それが、わかった。
ゆっくりと手を伸ばして、悟空は三蔵の頬に触れた。それから、軽く唇を触れ合わせた。最初に三蔵がしたように。
離れると、三蔵が驚いたような表情をしているのが目に入った。
それは、本当に無防備な驚きの表情で、普段は決して見せることのないものだった。
悟空は穏やかな笑顔をみせて、まっすぐに三蔵をみつめた。
「大好き」
囁いて、また唇を重ねる。
悟空が主体で始まったキスなのに、いつの間にか主導権は三蔵に移っていた。触れるだけの柔らかいキスから、深いキスへ。口内に侵入してくる舌に、たどたどしくも悟空は応えようとする。
その一生懸命さを愛しく思う。だが。
「また、泣かされたいのか」
三蔵は甘い唇からようやく自身を引き離した。
泣かせることも、傷つけることも本意ではない。
悟空が涙を見せたときに、結局、できないと思った。
だが、こんなキスをしていては、理性が持たない。
「大丈夫」
力が抜けたかのように三蔵の腕の中に崩れ落ちて悟空が言った。
「お前、何をされるかわかっていないだろう」
「うん。でも、大丈夫。何をされても、泣いても、大丈夫」
目元までうっすらと桜色に染めて、悟空は三蔵を見上げた。
「わかったから。三蔵が大切に思っててくれることが、わかったから。ね、だから、ちゃんと教えて」
悟空が両手を伸ばしてきた。
「それに、もう怖くないから、見せて。俺の知らない三蔵を、全部。全部、見たい……」
三蔵の首の後ろに手をまわして、柔らかく抱きついてくる。
「だから、抱いて」
囁くように、耳元で言われた台詞に三蔵はふっと笑みを浮かべた。
「わかった。その代わり、お前も全部、見せろ。お前も知らないお前の全てを」
もっと近くにと、ぎゅっと抱き寄せる。
二つの影が一つに重なり、ゆっくりとベッドの上にと崩れ落ちていった。