遠い日の約束(4)
三蔵の元から離れたいと思っているはずだった。
だが、それは違うというのだろうか。
どういうことなのか、三蔵にはよくわからなかった。
だが、泣いているのは、三蔵ゆえにということだけはわかった。
「悟空……」
三蔵は、指輪とその破片を握る左手の手首をとった。途端に、悟空の肩が震えた。
「とりあげたりしねぇよ。だが、そのままだと、手が傷つく」
三蔵はハンカチを取り出すと、その上の指輪と破片を乗せ、包んで悟空の手に握らせた。
「お前のものだ、永遠に」
悟空の目が見開かれた。
三蔵はそのまま悟空の手を包み込むようにとると、自分の唇にと近づけた。
「ずっと一緒にいる。お前が望む限り、あの約束はなくならない」
まるで誓いのように、三蔵は悟空の左手の薬指にそっと口づけた。
「さんぞ……」
信じられない、という目で悟空は三蔵をみつめる。それから、ためらいがちに右手があがって、三蔵の方にと伸ばされた。
三蔵は、悟空の手を途中で捕まえると、自分の方にと引き寄せた。
「三蔵、三蔵、三蔵」
柔らかく抱きしめて、泣きじゃくる悟空の背中をあやすように優しく撫でる。
暖かい体温が伝わってくる。
しばらく悟空は、そのまま三蔵に身を任せていたが、やがて落ち着きを取り戻したのか、顔を伏せたまま静かに離れていった。
「ありがとう。そう言ってくれて、嬉しい。でも、無理だと思う……」
悟空は呟いた。
「三蔵が他の人と一緒にいるところなんて見たくないから。あんな風に優しく――ううん、好きな人にするんだから、きっともっと優しく触れて、もっと強く抱きしめて――。やだ、そんなの、見るのはやだ――」
パタパタとまた涙が零れ落ちる。
「ちょっと、待て、悟空」
三蔵は両手で悟空の頬を包んで、上に向けさせた。
「他の人とか、好きな人とか、お前、何の話をしている?」
「だって、お嫁さん、連れてくるんでしょ? 三蔵がいくらここで三人で暮らせばいいって思ってくれてても、俺には無理だから。三蔵が誰かに触れるところなんか見たくないから――」
涙に濡れる瞳。三蔵はそっと唇を寄せた。悟空は驚いたように、体を硬くした。
「お前以外の誰に触れるっていうんだ……」
囁いて、今度は唇にキスを落とした。
「お前も――そして、俺も、たぶん、何か誤解をしている」
三蔵は悟空の涙をぬぐった。
「もう、泣くな。俺は、お前が望む限りそばにいるし、お前以外にこんな風には触れない」
もう一度、唇にキスをする。
泣かせるつもりなど、最初からなかった。
ただ、いつでも笑っていてほしかった。
なのに。
「お前、どうしてこんな風に俺が触れるのか、本当にわかってないのか?」
優しく、触れるだけのキスを繰り返す。
「昨日、抱いた意味さえも……?」
「あれは……あれは、どうして……? 最後だから? 同情して? 昨日は想いが叶ったのかと思って嬉しかった。でも、起きたら誰もいなくて、あの書類だけがあって……」
混乱しているかのように、悟空が呟く。
まだ目に涙を浮かべたままで、震えて、ひどく弱々しい感じがする。
こんな悟空を見るのは初めてだった。
最初に会った時でさえ、たった一人で緑道に佇んでいたというのに、こんなに不安そうな様子はしていなかった。
だから、一人にしたことでひどく傷つけたのだとわかった。
「悪かった……」
囁いて、強く抱きしめた。
「あの書類を見つけて、お前が俺から離れようとしているのかと思った。あいつに願い事をしたと聞いていたから、保証人になるように頼んで、その交換条件に俺を落とすように言われたのかと思った。ずっとこんな風に触れたいと思っていたのに、お前は俺から離れるために俺を利用しようとしているのかと思った」
その言葉に、悟空は顔をあげた。驚いたように大きく目を見開いていた。
「だから、怒りに任せて引き寄せた。だが……」
三蔵の指があがり、そっと悟空の頬を辿って、唇にと触れた。
「途中から、それは忘れた。ただ、触れたい、それだけだった」
唇の感触を確かめるように、指が滑っていく。
「朝起きて、思い出した。お前が俺から離れたがっていたことを。だから、逃げた。出て行くところなど、見たくなかった……」
悟空が息をのんだ。
「さんぞ……、それは……」
三蔵はふっと微笑んだ。柔らかい、優しい笑み。それは、他人には決して見せたことのない笑み。
「ずっと、お前に惹かれていた。最初に会ったときから、ずっと」
まるで宝物に触れるかのように、三蔵はそっと悟空の唇に触れた。そして、耳元で囁いた。
「好きだ」
「三蔵……」
「何を誤解しているのかはわからないが、それだけは信じろ」
強張っていた悟空の体から力が抜け落ちた。両手を伸ばして、三蔵に抱きついてきた。
「三蔵、三蔵。俺も、ずっと好きだった。三蔵が、あの日、俺をここに連れてきてくれたときからずっと」
それから、まっすぐに三蔵を見つめる。
「大好き、三蔵。大好き」
涙が零れ落ち、だが、とても綺麗に悟空は微笑んだ。
ゆっくりと二人の距離が縮まっていった。
三蔵は、柔らかく悟空を抱きしめて、その髪に顔を埋めた。
日向の匂いがした。
安心しきったかのように身を任せている悟空が愛しくて、三蔵は更に悟空を引き寄せた。
「ところで、お前、嫁とかなんとか言ってたのは何だ?」
しばらく呼吸を整えるためにそのままでいたが、ふと思い出して訊いた言葉に、悟空が「あっ!」と小さく声をあげて、三蔵の方を振り返った。
「三蔵。三蔵は平気で二股かけられるの? 両方とも好きとかいうの?」
「ちょっと、待て。何だ、それは?」
いきなり人聞きの悪いことを言われて、三蔵は眉間に皺を寄せた。
「だって、彼女のためにおねぇちゃんの会社に入ったんでしょ? 三蔵、死んでもおねぇちゃんの会社にだけは入らないって言ってたのに」
悟空が『おねぇちゃん』と呼ぶのは後見人の観世音菩薩のことだ。そう呼ぶように言われ、疑問も持たずにそう呼んでいる。
ちなみにそれは三蔵も言われていることだったが、そう呼んだことは一度もない。
「いくら聞いても、三蔵、理由を教えてくれなかったから、おねぇちゃんに直接聞いたら、彼女でもできて、その彼女を嫁に貰うために安定した職業についたんだろうって言われた」
「あのクソババァ……」
注意して聞けばすぐわかるが、観世音菩薩の言った言葉は全て予測の言葉だ。だが、悟空が信じるとわかっていてそう言ったのだろう。
「だから、おねぇちゃんに頼んだ。三蔵の結婚話を壊してほしいって」
「悟空……」
「おねぇちゃん、俺が三蔵を落とせば一石二鳥だろうって言った。無理やり引き離すのは可哀想だけど、新しい恋人ができたなら、少なくても三蔵は可哀想じゃないし、俺もずっと一緒にいれるから、望む通りになる。本当に三蔵と恋人同士になれたら、三蔵の結婚相手とはうまく話をつけてくれるって、おねぇちゃん、言ってくれた」
悟空は俯いた。
「でも、三蔵、全然取り合ってくれなくて……。だから、お嫁さんがくる前に出て行こうと思って、アパートを探した。だって、三蔵が他の人に触れるところなんか見たくなかったから……」
それから顔をあげて、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべる。
「軽蔑した? 裏でこんなことしてるなんて。いいよ。今からでも、手を放しても……」
再び視線を落とし、悟空は身を起こして三蔵から離れようとする。が……。
「誰が放してやると言った?」
三蔵は腕を伸ばして、悟空の体を自分の下にと巻き込んだ。
「ちょっと前までは、放してやろうと思っていたが、もう駄目だ。やっと手に入れたのに、今さら放せるか」
逃げられないように、とでもいうように顎を固定して、悟空に口づける。キスはすぐに深くなり、すがりつくように三蔵の肩に置かれた悟空の手に力が入った。ようやく唇を離して見下ろすと、悟空は金色の瞳に涙を浮かべていた。
だが、それは熱に浮かされたものだけではなかった。
「わがままだって、わかってる。でも、三蔵が、他の人にもこんな風に触れるのは嫌だ。嫌だから……」
微かに震えながらそう言って目を伏せた悟空に、三蔵は顔を近づけた。額にかかる髪をかきあげて、ほとんど触れるくらいにまで近づく。
「お前、さっきから何を聞いている。お前以外にはこんな風に触れないって言っているだろうが。だいたい、彼女だの、結婚だのという話はデマだ。よく考えればわかるだろうが。どこにそんなのの入り込む余地がある? そもそも俺があいつの会社で働くことになったのは、一年辛抱すれば俺の生活に口を出さないとあいつが約束したからだ」
「デマ……? 結婚、しないの?」
「するわけないだろう。だいたい、そろそろ身を固めろとか言って山のように持って来る見合い話を止めさせるために、あいつのトコで働くことにしたんだぞ」
ポロポロと悟空の目から涙が零れ落ちてきた。
「……お前、今の今まで、信じてなかったのか。あれだけ、お前に惹かれている、お前以外には触れないって言ったのに」
「だって……」
「もういい」
すっと三蔵の手が動いた。
「さ、さんぞっ?」
悟空が驚いたような声をあげた。
「ちょ……、さんぞ。待って。だって、さっき、シタばかり……んっ!」
悟空は大きく震えると、三蔵にしがみついてきた。
「そんなにわからないなら、わかるまで教えてやる」
三蔵はその耳元に囁いた。