祈りにも似た声無き叫び(2)


 会社での何の変哲もない一日が過ぎ、終業時間になると同時に、三蔵は机の上を片付け始めた。
 時々こうして普通の社会人として生活をしていることを不思議に思う。
 嫌だ、というのではない。
 ただ不思議だ。
 もし師匠が亡くなっていなければ、また別の道を歩いていたはずだろうから。師匠の後を継いで。
 それとも、辞退してやはりこうして普通の生活を送っていただろうか。
「玄奘さん」
 鞄を手に立ち上がったところ、呼び止められた。
 声のした方を見ると、人の良さそうな笑みを浮かべた顔が目に入った。
「そんな胡散臭そうな顔をしないでくださいよ。猪八戒です。昨日こちらに配属された。あなたも歓迎会にいらしてくれたでしょ?」
 確かに昨日は異動でこの部署に配属された人間の歓迎会があった。三蔵もそれに出席した。ただ単に出席しないと、煩わしいことになるからというだけの理由で。
 目の前にいるのは、そのとき、歓迎される立場にあった人間だという記憶はある。
 だが、話しかけられる理由にはならない。
 必要最低限の付き合いしかしない三蔵にとって、会社の人間とて、仕事以外で話しかけられるのは迷惑でしかない。
 その人目を惹く容姿のせいで、入社当時はいろいろと騒がれもしたのだが、一切無視を貫いているうちに、無駄なことを話しかけてくる人間はいなくなった。それは噂というよりももう既に伝説と化し、社内の人間ならば三蔵と同じ部署の者でなくても、仕事以外で話かけてくる人間はいなくなっていた。
「聞いていた通りですね」
 クスッと八戒が笑って言う。
 それに対して三蔵は何の反応も返さず、『言いたいことがあるならさっさとしろ』とでも言いたげな表情を浮かべたままだった。
「御託は沢山、ですか?」
 八戒は楽しげにそう言うと、不意に声を低めた。
「金目の少年、ご存知ですね? 会わせていただけませんか?」
 その言葉に三蔵の表情は険しくなった。
 社内には悟空と暮らしていることを知っている人間などいないはずだった。
「外に出てお話しましょうか?」
 珍しいことも、と周囲の人間がそれとなく聞き耳を立てていることに気付いたのか、八戒はもう一度人の良い笑みを浮かべた。
「お先に失礼します」
 そして、周囲に向かって声をかけると、先にたって部屋を出て行く。まるで当然、後から三蔵がついてくるとでもいうように。
 三蔵は舌打ちしそうな表情を浮かべたが、何も言わず、その後を追った。
 何よりも、なぜこの見知らぬ男が悟空のことを知っているのかが気になった。
「別に会社の人間に聞いたわけではないですし、言い触らす気もないのでご心配なく」
 廊下を歩きながら八戒は言う。人に会うたびに軽く会釈をしていくのだから、結構、顔が広いのかもしれない。
「僕は人を捜しているんです。それが金色の目の少年なんですけどね。あなたの元にいる少年がそうかもしれないという情報を独自のルートで手に入れまして」
 やがて社の外にと出ると、八戒はまっすぐに三蔵を見て言った。
 先ほどの人の良い笑みは影を潜め、真剣な表情をしている。
 その真剣な表情の八戒を見ているうちに、ふと三蔵は違和感を覚えた。
 何か顔つきに。いや、顔の作りだろうか。
 それが表情に出たのだろう。
「あぁ、僕の瞳、片方が義眼なんです」
 心得たように八戒が微かに笑みを浮かべて、右目に手をやった。
「そうですね、この目にも関係のあることなのですが……。ま、僕の事情など興味はないでしょう。それよりも、金色の目の少年に会わせていただけませんか?」
「理由も言わずにか?」
 八戒が金色の目の少年を捜していて、それで悟空に行き当たったのはわかった。
 どういった手段を使ったのかはわからないが、訊いてもたぶん答えないだろう。
 だが、それはどうでもよかった。
 ただ、何故、金色の目の少年を捜しているかは気になった。それがもし悟空だとしたら、どういった理由で捜しているのだろうか。
「理由ですか」
 八戒は困ったような顔をした。それから、少し考えて口を開いた。
「今ここで、なぜ僕がその少年を捜しているのかという理由を正直に話しても信じてもらえないと思います。かといって、嘘を言うのも後々のことを考えると得策とは思えません。ですから、ちょっとした交換条件を出しましょう。あなたが真実をもとめるときに、お手伝いをするという。どんな痛みを伴うものであれ、あなたは虚構よりも真実を選ぶタイプのように見受けられますから」
 言っていることの意味が半分もわからなかった。
 三蔵は訝しげな表情を八戒に向けた。
 だが、これだけ異様なことを言われているにも関わらず、いつものように話はここまでと打ち切ってしまうことはできなかった。
 悟空に関することかもしれないから。
 それもあるが、興味本位で近づいてくるような人間とは、どこか根本的なところで八戒が違っているのがわかるからかもしれない。
「言っていることの意味がわかりませんか? では、例をあげましょう。あなたは夢を見ませんか? とても大切な人を失う悪夢を」
 三蔵の目が見開かれた。
「確かに現実でも大切な人の死には直面しているけれど、夢で見るようなことは起こらなかったはずなのに、妙に現実味のある夢を」
 八戒はそこで一度言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。
「大切な人が目の前で殺される夢を」
 三蔵の表情が、険しくなった。
「心当たりがあるようですね。そんな夢を見る理由が知りたくありませんか?」
「……それが悟空に関係があるとでも?」
 関係がなければ、『交換条件』にはならないだろう。
「悟空、という名なのですね」
 大切な人の名前のように、八戒はそっと悟空の名を発音した。
「僕が捜している少年ならば、関係してくるでしょう。ですが、その関係は他人から聞くよりも自分で捜し出した方が納得がいくと思います。会わせていただけるのならば、そのお手伝いをしますよ」
「何故だ?」
 三蔵の問いかけに、今度は八戒が訝しげな表情を浮かべた。
「何故、悟空に会わせてほしいと俺に頼む? 俺が悪夢を見ることまでわかっているのならば、悟空がどこにいるのかくらい簡単にわかるだろうが」
「いいえ」
 八戒は静かに首を横に振った。
「繋がりのない人間を捜すことは不可能です。少年はどことも繋がっていないのですよ、あなた以外とは。あなたと繋がることによって初めて見つけ出せたのですから」