祈りにも似た声無き叫び(4)


 中は水を打ったように静まり返っていた。
「どっちに行けばいいかわかります?」
 自然、囁き声になった八戒に、三蔵が道を指し示そうとしたところ、突然、後ろから声をかけられた。
「あれ? 三蔵?」
 振り向くと空の皿の載ったトレイを持った悟空が立っていた。
「何? 何で、こんなとこにいるの?」
 三蔵はほっとしたような表情を浮かべ、それから何と答えようかと迷っていたところ、八戒が先に口を開いた。
「あなたが孫悟空君ですか?」
「そうですけど、あなたは?」
 悟空は八戒の方に視線を向け、少しきょとんとしたような表情を浮かべた。
「僕を覚えていませんか?」
 悟空は眉を寄せた。じっと、思い出そうとするように八戒の顔を見る。
「もっと小さい頃の僕です」
 しばらく悟空は難しい顔のまま八戒の顔を見ていたが、やがてため息をついた。
「ごめんなさい。覚えてないです。どこかで会いました?」
 その言葉に八戒が微かに失望の色を見せた。
「いえ。それならいいのです。……人違い、ですか」
「へ?」
 悟空が不思議そうな表情になった。
「実は僕は人を捜していまして。それで、玄奘さんにここに連れてきていただいたのですよ」
「えっと、その捜している人が俺かもしれないと思ったってこと?」
「えぇ。金色の目をしている人だったので。僕の覚えているのはそれだけなんですけどね」
「あの……。それじゃあ、捜している人かどうかなんてわからなくないですか?」
 悟空は眉根を寄せて、八戒を見た。
「その人が僕を覚えているはずなんで」
 にっこりと笑って言った八戒に、ますます困惑したかのように悟空の眉間の皺が深くなった。
「おい、悟空、何してるんだ?」
 と、後ろから別の声がした。
「悟浄」
 スーツを着て、長い赤い髪を後ろで束ねた青年が立っていた。
「悟浄じゃねぇよ、チーフと呼べ。ってそんなことはどうでもいいが、こんなとこで立ち話なんかしてねぇで、次の料理を運べよ」
「あ、ごめん。ちょっと、待って」
 悟空は悟浄にそう言うと、改めて三蔵の方を見た。
「三蔵、悪いけど頼まれてくれる? 《チャコール》に電話して、明日のお見舞い用に限定のシュークリームの予約をしてくれないかな? 今日、店に来る前に電話しようと思ってたんだけど、なんかバタバタしてて忘れちゃって。あれ、朱泱、好きだったろ?」
「悟空」
 悟空の言葉に、三蔵は安堵にも似た表情を浮かべ、手を伸ばすと悟空を抱きしめた。
「え? ちょっと、三蔵、俺、皿、持ってるんだけど。危ないって」
 悟空は皿を頭の上にあげて、バランスをとる。
「ね、三蔵、どうしたの?」
「なんでもない」
 三蔵は一度腕に力を入れ、それから悟空を離した。
「何時頃帰ってくる?」
「えっと、十一時過ぎ、かな? いつもの遅番のときと同じだよ?」
「わかった。待っている」
 まっすぐに悟空を見つめて三蔵が言う。
「うん。……ね、三蔵、何かあった?」
 悟空は頷き、それから、心配そうな顔で三蔵を見る。
「なんでもないと言っただろ」
「そう、ならいいけど。予約、お願いね。それから、ちゃんとご飯食べてね。じゃ」
 にっこりと笑って軽く三蔵の頬に唇を寄せると、悟空はその場を離れていった。
「……ったく、見せつけてるのかよ、あいつは」
 それを見送り、悟浄が呟いた。
「で、お二人さん」
 それから三蔵と八戒の方を向く。
「どこから入ってきたのかとか野暮なことは聞かないけど、これっきりにしてくれないかな? バイト君でもあいつ、仕事中だから」
「あぁ、すみません。それにしても、僕たちが客じゃないとわかっているんですね」
 素直に謝り、それから感心したかのように八戒が言った。
「それは、一応、このフロアーの管理を任されているからね。今いる客くらい把握している」
 そこで悟浄はにやりと笑った。
「それに、金髪で紫の目の悟空の想い人の話と言ったら、ここでは有名だし。玄奘三蔵さんだろ? さっき下に来てたって話を聞いたからな。俺は沙悟浄。一階は管轄外だから会うのは初めてだけど、悟空とは幼馴染なんだ。話、聞いてねぇ?」
 そう言いつつ悟浄は手を差し出したが、三蔵は完璧にその手を無視した。
「聞いてないみたいだな」
 気を悪くした様子もなく、悟浄はクスリと笑った。
「で、そちらのもう一人の美人さんは?」
「猪八戒と言います。玄奘さんの同僚です」
 こちらは手を出し、二人は握手を交した。
「よろしく。ちゃんとお話したいところだけど、こちらも仕事中でね。悪いけど……」
「えぇ。すみませんでした」
 八戒が人当たりの良い笑顔を浮かべた。
 たぶんこの笑顔は処世術のひとつなのだろう。
 三蔵が八戒をちゃんと認識してからそんなに経っていないが、これまでに何度となく見たその笑顔は全て同じものだった。
 悟浄が先に立って案内するかのようにエレベータに向かった。
「じゃ、失礼します」
 エレベータの扉が開き、中に入ると八戒は再び笑顔を見せた。
 二人の目の前でエレベータの扉が閉まると、八戒は息を吐き出した。
「人違いだったか……」
 それを落胆のものと取って、三蔵が呟いた。どことなく愁眉を開いたような表情をしていた。
「いいえ。『彼』です」
 だが、密やかに八戒は答えた。
「間違いありません」
 その顔には先ほどの笑顔とは別の笑みが浮かんでいた。