祈りにも似た声無き叫び(6)


 そして結局、病室についたのは、面会終了時刻の三十分前だった。
 冬の日の落ちるのは早い。辺りはもうすっかり暗くなっていた。
「ごめんね、朱泱、遅くなって」
 ベッドのそばの椅子に腰かけて悟空が言った。
 三蔵はお見舞いに持ってきたシュークリーム用にコーヒーを買いに一度、病室から出ていた。ついでに花瓶の水も変えてきて、と悟空に頼まれて渋い顔をした。
 本当は悟空が自分でしようと思ったのだが、目敏い朱泱に座っていろと言われてのことだった。
「気にすんな。それより、あいつがこんな風に心許せる存在がいるっていう方が俺にとっちゃ嬉しいよ」
 穏やかな笑みを浮かべて朱泱が言う。
 昔はもっと眼光も鋭くて、強健な体つきをしていたと三蔵は言っていた。だが、悟空が最初に朱泱にあったのはこの病室で、そのときにはもう今のように痩せ衰えていた。
 初めて朱泱に紹介されたのは、三蔵と暮らし始めて少し経った頃のことだった。
 三蔵の養父の弟子にあたる人物で、三蔵とは兄弟のような関係だと言われた。
 朱泱と話すとき、三蔵の雰囲気が柔らかくなるので本当に信頼しているのだと思った。それはとても嬉しいことだと感じる反面、朱泱の病状は一向に良くならず、このまま朱泱を失うことになったら、三蔵はどうなるのだろうと心配もしていた。
 朱泱が入院したのと、三蔵が悟空と暮らし始めたのと。
 それは、ほぼ同時期だった。
 一緒に暮らすことになったのは、近しい人を失って、一人になるのを無意識のうちに恐れた結果なのかもしれない。
「心許してくれているかどうかはわかんないけどね」
「許してなければ一緒には暮らさないし、それにあいつの性格上、肌を重ねたりはしないだろう。ま、それで大変な目にも会っているみたいだが」
 その言葉に悟空の頬が赤くなる。
「大変、ってゆうか。それは別に……」
 俯いて口の中でもごもごと言う悟空の頭を、朱泱はくしゃりとかき回した。
「あいつを、よろしく頼むな」
 真剣な口調に悟空は顔をあげた。
「俺はたぶんもう長くはないだろうから」
「何、言ってるんだよ。そんなの、わかんないだろ」
「いや、わかるんだよ。どんどんと違和感が膨らんでいるしな」
「そんなの気のせいだって。医者だって、そう言ってるだろ。別におかしなところはないって」
「だが、病気は治らない」
 悟空は言葉に詰まった。
 朱泱の病気の原因はまったくの不明だった。衰弱していくのに比例して、『違和感』が広がっていくのだと本人は言うのだが、検査では何も見つからない。医者もどうしたら良いのかわからずに手を拱いているだけで、ただ見守っているしかなかった。
「あいつを残していくのが気がかりだったんだが、それもなくなった」
「朱泱っ! そんなこと言うなよ!」
「何を騒いでいるんだ、病室で」
 悟空が思わず大声をあげたとき、三蔵の声が響いた。
「三蔵、だって、だって、朱泱が……」
 三蔵はベッドの脇の小卓にコーヒーの乗ったトレイを置くと、泣きそうな顔をしている悟空の頭をくしゃりと掻き回した。
 その仕草は朱泱と同じもので、本当に二人が一緒に育ってきたのだという絆を感じさせた。
 それなのに。
 その絆は切れようとしている。
 ぎゅっと、悟空は三蔵の上着の裾を握り締めた。
「おい、花瓶は?」
 と、朱泱の声がして、悟空ははっとしたように手を離した。
「あぁ。忘れてきたな」
「珍しいね」
 三蔵の答えに、悟空は椅子から立ち上がった。
 病人の前で、あんな風に泣きそうになるなんて、良くないことだと思った。
 頭を冷やさなくては。
「取ってくるよ」
 悟空はそう言って、足音も軽く駆け出した。
「いい子だな」
 その後姿を見送って、しみじみと朱泱が呟いた。
「悪い子だと思ったことはないぞ」
 その言い様に朱泱はクスッと笑った。
「そういう話をしているんじゃないんだが」
 だが、三蔵が何か言いたそうにしているのに気づき、笑いを収める。
「どうした?」
「いや……」
 迷うかのように三蔵は朱泱の視線を避けていたが、やがて口を開いた。
「朱泱、お前は覚えているか? お師匠様が亡くなった夜のこと」
「忘れるわけないだろう」
 ふっと朱泱が遠い目になった。
「お前をよろしく頼む、と言われたのだから」
「それは……それは亡くなる直前の記憶か? 俺もその場にいたか?」
「何を言ってるんだ?」
 朱泱が訝しげな顔をする。
 三蔵は大きく息を吐き出した。
 真実が知りたいのならば、突き詰めて考えてみろ、と言われた。
 近しい人がいるなら、同じような記憶を持っているのか、それを確かめてみろと。
 ちゃんと考えているうちに、話しているうちに、必ずみつかる。
 合わない部分が。
 そして、思い出すはずだ。
 真実を。
「俺は……。俺には、もう一つの記憶があるんだ。記憶というか、夢というか……。いや、ずっと夢だと思っていた。だが……」
 三蔵はまっすぐに朱泱を見た。
「それが夢でないとしたら――」
 その表情は怖いくらいに真剣だった。