祈りにも似た声無き叫び(7)


「悟空君」
 悟空が給湯室に入ると、背後から声をかけられた。振り向くと、翠の目をした青年がいた。
「あ、えっと……、猪八戒さん?」
 昨夜、三蔵といた青年だと気づく。
「名前……」
「悟浄から聞きました。昨日はちゃんと挨拶もできなくてごめんなさい」
「いえ、突然、職場に伺ったのですから。改めまして、よろしく」
「こちらこそ」
 悟空はそう答え、それから心配そうな表情になる。
「どなたかのお見舞いですか? あ、すみません、立ち入ったことを」
「いいえ」
 八戒は穏やかな笑顔を浮かべた。
「お見舞いじゃありません。僕の右目は義眼でしてね。月に一度、検査をするように言われているんですよ。外来のところで会計を待っていたら、お二人が入ってくるのが見えたものですから」
「あぁ、それはここに知り合いが入院しているので。って、さっき、三蔵から聞きました?」
 その言葉に八戒は少し驚いたような表情になる。
「玄奘さんが言ってました?」
「いいえ」
 悟空は花瓶をとりあげた。
「これ、忘れたんで。あまりそういうこと、ないから……」
 悟空は少し躊躇うかのように言葉を切り、それからまた言葉を継いだ。
「あの……。何を言ったのか知りませんけど、三蔵を混乱させるだけのことなら、やめてください」
「僕が玄奘さんに何か吹き込んだと?」
「だって、昨日から様子がおかしいから。あの人、見かけより繊細だし、それに今は――」
「今は、何もかも忘れて幸福に暮らしているから、ですか?」
 ふっと、八戒の顔から笑みが消えた。
「それは本当の幸福なのでしょうか? 虚構の上に成り立っているものが、本物に成りえるのでしょうか。それともあなたにとっては、全てがどうせ虚構なのだから本物の幸福なんてどうでもいいことですか?」
「それは、どういう意味――」
 尋ねようとした悟空の言葉を八戒は遮った。
「人の記憶はかなり都合良くできていて、悲しいこともやがて風化していきます。でも、それでも忘れられぬ想いはあって、それはいくら消そうとしても消えない。あなた方の技術をもってしても。だから、あなたは玄奘さんのそばに現れた。玄奘さんの大切な人がまた失われるときにその記憶が蘇ることのないよう監視するために。違いますか?」
「何を言って――」
「ごまかそうとしなくてもいいです。あなたが僕から花喃を奪ってから八年。ずっとあなたを捜し続けて、わかったこともいろいろとありますから」
 そこで、八戒はふっと笑みを浮かべた。
 今までの人当たりの良い笑みとはまったく別の酷薄な笑み。
「あぁ、もしかして『何を言っているのか』というのは、玄奘さんの監視のことですか? 傍にいるのは義務ではなく、本気に好きだからと? それだったら、いいですね。そういう感情があるのならば、『奪われる』ということがどういうことなのか、あなたにもわかるということですから」
 ゆっくりと八戒が悟空の方に近づいてきた。
 八戒が近づくにつれ、悟空もまた後ろに下がったが、すぐにその背は壁にとぶつかった。
「ずっとあなたのことを考えて、ずっとあなたを捜していました」
 壁に手をついて、悟空の方にと上体を覆いかぶせるようにして八戒が囁いた。
 睦言のように。
「あの時とまったく同じ姿をしているなんて、信じられませんでしたが、でも、おかげで迷うことなくあなたを手にかけることができそうです」
 だが、続いて囁かれたのは睦言とはまったく無縁の言葉。
 すっと八戒の手が伸びて、指が悟空の首に絡んだ。
「本当に僕のことを覚えていませんか? あなたが殺した少女のことも? 花喃――。僕の姉であり、最愛の女性。あなたは突然現れて、花喃に襲いかかり、止めようとした僕の右目を奪って、花喃を殺した」
 悟空の顔からは表情が消えていた。
 何も言わず、動こうともせず、人形のような瞳でただ八戒を見つめる。
「そんなこと、一々覚えていませんか? その手で数え切れないほどの命を奪っているから……」
 八戒の指にわずかに力が入った。
「この瞬間のことをずっと考えていましたよ。この手であなたの命を奪う瞬間のことを」
 八戒の顔が愉悦に歪む。
「抵抗、しないんですか? さもなければ、こんなことをしても花喃は返ってこないとか、そんなことを言って命乞いをするとかしないんですか?」
 悟空はじっと表情を消したまま八戒を見つめる。
 八戒が更に指に力をいれたそのとき。
 ガッシャーン。
 ガラスの割れる大きな音が響いた。
 驚いて指の力を抜いたのは一瞬のことだったが、八戒が我に返るとそこに悟空の姿はなかった。
 振り向くと一陣の風のように走り去る背中が見えた。
「逃しましたか……」
 八戒は呟いた。