祈りにも似た声無き叫び(8)


「三蔵っ!」
 朱泱の病室へと駆け込んだ悟空は、中を見るなり凍りついたように動きを止めた。
粉々に割れた窓ガラスが散乱し、病室は惨憺たる有り様だった。
「朱……泱……」
 噛み締めた唇の間から悟空は絞り出すように呟き、そして手を握り締めた。

 夜の闇。
 病院の屋上で朱泱と対峙しながら、三蔵の頭の中にはこれとよく似た状況が昔あったという思いがしきりに渦巻いていた。
 それは夢。夢だったはずだ。
 だが。
「朱泱……」
 何もかもが消え去った表情。まるで他人のよう。呼びかける声に答えはない。
 朱泱が手を振り上げた。
「三蔵っ!」
 声とともに何かが当たってきて、体が横に飛ばされた。
 鈍い音が辺りに響く。
 だが、それは屋上のコンクリートの床に体を叩きつけられた音ではなく。
「三蔵、大丈夫?」
 身を起こしたときにかけられた声は遠くから聞こえてくるようだった。
 目の前の信じられない光景に思考を奪われる。
「三蔵」
 ふっと辺りが暗くなった。
 暖かな手の感触に目隠しをされたのだとわかる。
「今は何も考えないで。ここから逃げることだけ考えて」
 耳元で悟空の囁き声がした。それと同時に手が外される。
 再び目に映った光景はさっきとは変わらず、夢ではないことを告げる。
 それは、コンクリートの床に穴が開いている光景。
 朱泱が素手で叩き割ったもの。
「一体、これは……」
 呆然と三蔵は呟いたが、それでも先ほどよりは幾分落ち着いて、視線を悟空にと移した。
「怪我はしてない? 走れる?」
 悟空は確かめるようにざっと三蔵を見て、それから立ち上がった。
「出口まで走って」
 まるで三蔵を庇うかのように一歩前に出る。
 見上げる横顔に浮かぶのは、三蔵が今までに一度も見たこともないような表情。
 冷たく、鋭利な――。
「悟空……?」
 見たこともない表情のはずだった。
 三蔵は眉を顰めた。
 それなのに、どこかで見たことのある表情だと告げる声が頭の中でする。
「逃げて」
 悟空は短く言うと、朱泱の方に走り出した。
「悟空っ!」
 悟空は、朱泱の振り回す手を軽く躱していく。
「逃げて! 早く!」
 躱しながら、悟空は声を張り上げる。
「できるか、馬鹿っ!」
 三蔵が立ち上がり、悟空に向かって走り出そうとしたとき。
「悟空!」
 別の声とともに、何かが宙を飛んでいった。
「悟浄、遅い!」
 悟空は地面を蹴ると、軽く、まるで体重がないかのようにふわりと宙に舞い上がった。そして、空中で飛んできたものを掴むとストンと地面に降り立つ。
「無茶言うな。これで精一杯だ」
 いつの間にか、屋上に昨日会った赤い髪の青年――悟浄が立っていた。
 三蔵は悟浄を見、それから悟空にと視線を移した。
 月明かりのなかに立つ、その細い姿。
「悟……空……?」
 悟空の手には、月の光を反射して冴えた銀色の光を放つ柄の長い大きな鎌。
 それは。
「思い出しちゃったね……」
 ため息をつくように悟空が囁いた。
 ふっと動いたその表情は、笑みか悲しみか。
 だが、次の瞬間、悟空の顔は鋭くなり、そして、無造作に手を一閃させた。
 煌く銀色の光。
 ゆっくりと崩れ落ちていく人影。
 広がる赤い血。
 全て同じ。
 あの夜と。
 お師匠様が殺されたあの夜と。
「何故……?」
 三蔵の口から無意識のうちに呟き声が漏れた。