伝える言葉(4)
遠ざかる後ろ姿を目の端に捕らえながら、三蔵は煙草の煙を吐き出した。まるでため息のように。
好きな人としたい。
まっすぐに見つめてくる視線に、責められているような気になった。
事実、責めているのだと思う。
何も教えぬまま、その手をとったのは――。
「……やれやれ、相変わらずキヨラカなことで」
「お前、まだいたのか」
「ご挨拶だな」
三蔵のとなりで、悟浄が煙草を取り出して口にくわえた。どうやら薪拾いはいったん悟空に任せ、一服するつもりのようだ。
二人して遠ざかっていく悟空の後ろ姿に視線をやる。
「どうやったらあんなに綺麗なままでいられるわけ? 後学のためにもぜひ教えていただきたいね」
「何で俺に」
「だって、育てたのはあんたでしょ、保護者サマ」
「育てた覚えはねぇよ」
どうしたらあんなに綺麗なままでいられるのか。
聞きたいのはこちらの方だ、と思う。
最初にその手をとったとき、真っ白なものを汚してしまったのだと思った。
だが、いくら汚しても、汚れることのない白さ。
そんなものがあるのだと初めて知った。
「にしても、好きな人としたい、か」
クスリと悟浄が笑う。
「一体、誰なんだか、好きな人って」
悟浄の言葉に訝しげに三蔵が視線を送ったその時。
「玄奘三蔵、覚悟っ!」
場違いなほど大きな叫び声があたりに響きわたった。
三蔵と悟浄を残して、悟空は森の奥へと歩を進めた。
たぶん悟浄は誤解をしているのだ、と思う。それを口に出して言う気はないが。
セックスを知らないわけではない。そして、それに伴う快楽も。
もちろん、悟浄の言うこととは違うということはわかっている。
だが、快楽の種類に違いはないだろう。
だから、快楽のためだけに、別に好きでもない人とできることも頭では理解できる。
さんざん言われてきたから。
お前など代用品に過ぎないのだと。
ことあるごとに、あの寺院にいた僧たちに。
でも。
嬉しかった。
それがどんな理由から与えられたものであれ。
とても嬉しかった。
すぐ近くに三蔵を感じられることが。
繋がるという行為が、三蔵のすべてを自分の一番奥深いところで感じられるようで。
本当に嬉しかった。
それに。
そのときだけは特別で。
髪に触っても怒られないこととか、普段は滅多に呼んでくれない名前をたくさん呼んでくれることとか。
それが、凄く嬉しかった。
三蔵にとっては、特に意味もないことでも。
嬉しいと感じたこの心だけは自分のもので、本物なのだから。
それを大切にしたい。
もう二度と触れてくれなくても。
だから――。
思わず、手にしていた木の枝を強く、指が白くなるほど強く握りしめた悟空の耳に、場違いなほど大きな叫び声が聞こえてきた。
「玄奘三蔵、覚悟っ!」
「三蔵?!」
悟空は木の枝を取り落とすと、もと来た道を駆け戻った。
「おっそいぞ、小猿ちゃん」
悟空の目の端を銀色の光が通っていった。横から悟空に飛び掛ろうとしていた男が地面に沈む。
「……っブないじゃねぇか、エロ河童っ!」
「助けてやったのに、それはないんじゃない?」
「余計なお世話」
召喚した如意棒を振り回しつつ、悟空は三蔵と悟浄の元にと駆け寄った。
「僕、思うんですけどね」
光が炸裂した。
押し寄せてきた妖怪の集団が吹っ飛ぶ。
「八戒っ!」
「『玄奘三蔵、覚悟』とか言わないほうがいいんじゃないかな、って。あんな大声あげたら誰だって気づきますからね。気づかれないうちに、襲った方が良くないですか? こんなに力の差があるっていうのに」
のほほんと、だが暗に失礼なことを言いつつ、八戒が姿を現した。
「あぁ、でも、数だけは揃えてきたようですね」
木々の陰から窺う幾対もの目。
十重二十重に囲まれたようだった。
「数だけ、ね」
唇の片端をあげて、悟浄がニヤリと笑った。
「んなの、関係ねぇじゃん」
悟空が、くるりと如意棒を回す。
パシッと手にとった瞬間。
「おりゃあっ!」
かけ声とともに、妖怪のただ中に突っ込んでいった。
もうどのくらいの妖怪を打ち倒したのだろう。
悟空が敵の集団に突っ込んでいったあと、森の木々に邪魔されるせいもあって、四人ともバラバラに分断されてしまった。
そんなことはよくあることで、誰一人として、他の三人を心配するようなことはなかった。
だが。
止めの一撃を地面に伏した男の鳩尾に叩きつけると、悟空は片膝を地面についた。
空気をもとめて、忙しなく呼吸をする。
何か変だった。
このくらいで、こんなに息があがるはずはない。
いつもよりも何十倍も体が重いような気がした。
それに。
バタバタと近寄ってくる足音に、悟空は後ろを振り返った。
落ちてくる剣を如意棒で受け止める。
「っ!」
が、受けきれずに体をずらして、横に滑らせた。そのまま受け流して向かってきた男と対峙する。
左手にまるで力が入らなくなっていた。
痛みが酷くなっているわけではないが、こうして如意棒に添えるだけが精一杯。斬撃を受け止めるだけの力はなかった。
はぁはぁと荒く息をつきながら、悟空は遠ざかりそうになる意識と戦っていた。
体が異様に重く、まるで地面に向かって引き寄せられているかのような感じがする。
このまま崩れ落ちてしまいそうだった。
だが、もちろんそんなことはできない。
奇声をあげて向かってくる男を躱す。如意棒を振り上げようとしたとき、別の方向から別の男が向かってくるのが見えた。
普段であれば難なく躱せる動きだった。だが、今は。
「悟空っ?!」
どこかで八戒の叫び声がした。
――三蔵。
ふっと意識が遠ざかるのを、悟空は他人事のように感じていた。
もう一度、その顔が見たかった。
脳裏に浮かぶ姿さえも、暗闇につつまれていく。
完全に闇に閉ざされるその刹那。
ズキューン。
一発の銃声が辺りを切り裂いた。
沈み込もうとしていた意識が、引き戻される。
そして更にもう一発の銃声。
と同時に、地面にと倒れかけていた体が受け止められた。
腕の感触に、懐かしさを覚える。
悟空はふと視線をあげた。
三蔵。
無意識のうちに悟空の手が伸びて、三蔵の着物の袂を掴んだ。
「悟空っ!」
声まで蒼白にして、八戒が駆け寄ってくる。やがて悟浄も。
しばらく闘争の音が続いていたが、やがてそれも聞こえなくなった。
辺りに静寂が訪れる。
だが。
「……っの、バカ猿っ!」
怒りに満ちた三蔵の声が響き渡った。