伝える言葉(5)


 抱きとめた体が異様に熱かった。
 驚いた。
 そして八戒が叫ぶまで、こんな状態だったことをまるで気づかなかった自分に三蔵は腹をたてた。
「……っの、バカ猿っ!」
 怒りの矛先はたやすく悟空にと向かった。
「具合が悪いなら、なぜ言わない? お前のせいで全員が危ない目に遭うことだってありえるんだぞ」
 こんなことが言いたいわけではなかった。
 だが、口をついて出てくる言葉を止めることはできなかった。
「……ごめんなさい」
 悟空が小さく呟いた。
 まるで小さな子供に戻ってしまったかのような、心もとない声。
「八戒」
 見ていられなくなって、三蔵は八戒を呼んだ。
「手当てをしてやれ」
 そしてその場を離れようとする。
 が、悟空が掴んだままだった袂が引っ張られて、三蔵は足を止めた。
 振り返ると、驚いたような顔をして、自分の手を見ている悟空の姿が目に入った。
 やがて悟空が顔をあげる。
 何か言いたそうな顔をしていたが、じっと三蔵が見ていると、ふっと視線を落とし、力なく袂から手を離した。
「悟空、大丈夫ですか?」
 心配そうな八戒の声を背に聞きながら、三蔵はその場を離れた。


 辺りの闇が深くなるにつれ、月の光が強くなっていく。
 すっかり陽が落ち、空に残っていたオレンジ色も消えたころ、一人佇む三蔵のもとに八戒と悟浄が姿を現した。
「こんなところにいたんですか」
 八戒が声をかける。
「すみませんけど、悟空の様子を見ていてくれませんか? 僕たちは薬草がないか、ちょっとその辺を探してきますから」
「薬草?」
 初めて三蔵が二人の方を見た。
「そ。小猿ちゃんのあれね、ただの風邪とかでなくて、毒だったみたい。昨日の騒動。お前のお相手、ナイフを振り回したんだって? そのナイフに毒が塗ってあったらしい」
「それをあなたのせい、とは言いませんけどね」
 三蔵の微かに表情が動いたのを見て、八戒が言う。
 たぶん普通の人であればわからないくらいの表情の動き。
 だが、八戒も悟浄もそれなりに三蔵との付き合いを重ねてきた。この目の前の人物が見かけほど傍若無人ではないことを知っている。
 それを再確認し、少し安心して八戒は言葉を続けた。
「とりあえず症状から毒消しの薬は処方して飲ませましたけど、何分どんな毒が使われているかわからないわけですし、容態が急変することもありますから揃えられるものは揃えておこうと思いまして。町が近くならそこまで運ぶところですが、ここから近くの町まではジープでも一日、かかりますしね。できればあまり動かさない方がいいので」
「だから、小猿ちゃんのお世話、よろしく」
「何かあったら、ジープを寄越してくださいね」
 二人はそう言うと灯りを手に、森の中にと入っていく。
 しばらく見送って、三蔵は踵を返した。


「はっか……い?」
 人の気配に気づいたのだろう。
 三蔵が近づくと、悟空が声をあげた。
「三蔵……」
 弱々しいその様子は、近づいてくるのが三蔵だとわかった途端一転し、慌てたように起き上がってくる。
「無理するな」
「大丈夫。もう大丈夫だから」
 毛布を重ねて、急ごしらえで作った寝床からも這い出ようとする。
「いいから、寝てろ」
 まだ本調子ではないのは、見ればわかる。
 なのに何故、三蔵の前では取り繕うとするのだろう。
 滅多になかったが、子供のころは病気になると、むしろ甘えてきた。さすがに病人相手では、普段よりも態度が優しくなる。それが嬉しかったのだろう。
 それなのに今は――。
 八戒だと安心できて、三蔵では安心できないということだろうか。
 不意に、胸の辺りがざわめいた。
「本当に大丈夫だよ」
「全然、大丈夫には見えねぇよ」
 だから『大丈夫』と繰り返す悟空に、口調が少しきつくなった。
 その口調に悟空が怯んだような様子を見せた。
 このくらいの言い合いは日常茶飯事のはずだ。
 どうしてこんなに傷ついたような目をするのだろう。
 三蔵が訝しげにそう思ったとき。
「すぐ治る。もっと強くなる。だから、だから――置いていかないで」
 必死の様子で言い募る悟空の声が耳に響いた。
 置いていくな。
 拾ってきたばかりの頃、よく言われた言葉。
 震えて泣きながら。
 だが、もう随分とそんなことは言われていなかったというのに。
「何を、急に……」
「だって、それしかないだろう? 強くあることしか。もうそれしか三蔵のそばにいられる理由は残っていないのに」
「何の話だ?」
「……代用品は、もう必要ないだろ」
 悟空が呟く。
「いくら誰でも一緒でも、やっぱり女の人の方がいいだろ? 寺院にいるときと違って、外では簡単に女性が手に入るから、もう俺は必要ない。そしたら、あと残っているのは、強いこと、だけだったのに」
 ふっと悟空が顔を伏せた。
「もう二度とこんな風に倒れたりしないから。だから、置いていかないで」
「ちょっと、待て」
 混乱して三蔵は呟いた。
「代用品? 俺がいつ、そんなことを言った? それに誰でも一緒だと?」
「昨日、三蔵が自分で言っただろ。誰でも一緒だったって」
 確かにそのようなことを言ったかもしれない。
 三蔵は昨日のことを振り返って思った。だが。
「別にそれはお前に向かって言ったわけじゃねぇよ。そんなの、わかるだろうが。だいたい必要とか必要ないとか、それは何だ? お前は代用品として必要とされているとでも思っていたのか?」
 胸に湧き上がってくるのは――たぶん、怒り。
 何故そんなことを言い出すのだろう、と。
 最初に触れたのは、たぶんはずみだった。それは認める。直前まで、その手の感情をこの小猿相手に覚えるとは思ってもみなかった。
 だが、触れてみて、自分のものにしてみて、初めてわかった。
 どれだけ自分の心が渇いていたのかが。
 満たされ、癒される気がした。
 普通ならば、絶対に認めようとは思わない感情。
 だが、この小猿ならばいいかと思った。この小猿ならば。
 そんなことの全て伝わっているとは思っていなかった。
 思ってはいなかったが、代用品だと思われているとは。
 つまりは、悟空が自分に向ける感情もそれと同等にどうでも良いものだということ。
 胸にくすぶる怒りが、より大きく育とうとしたその刹那。
「だって、触れてくれない……。三蔵、寺院を出てから一度も俺に触れてくれない」
 悟空の口から震えるような声が漏れた。
 三蔵の目が大きく見開かれた。
「でも……それでも」
 伏せられていた金色の目が三蔵をまっすぐに見つめてくる。
 こういうときの悟空の金晴眼は、あまりにも無垢で、あまりにも純粋で、自分との違いを見せつけられているようで、目を逸らしたくなる。
 どうしたらこんなに綺麗なままでいられるのか。
 何も知らないからではないその強さに驚嘆する。
「それでもね、俺は三蔵が好きだよ」
 静かに悟空が告げた。