雷、のち晴れ(4)


 三蔵――。
 走り抜けていく町の景色など、悟空の目には入っていなかった。
 ただ一人。
 ただ一人の人を目指して。
「見つけた」
 だが、不意に腕を掴まれた。
「うわっ」
 勢いで、地面にと倒れこんでしまう。
「何?」
 悪意も、敵意もなかった。
 だから、いきなり止められるなど、想像もしていない事態に悟空は驚く。
「ここにいれば会えるってわかってた」
 歌うような、柔らかい声がした。
 顔をあげた悟空の目に映るのは、小柄な少女。
 掴まれた腕を引かれて、起き上がらせられる。視線を移すと、腕を掴んでいるのは大柄な男。
「一緒に行こう」
 前に立っている少女が言う。
 そして、まるで当然というように歩き出す。
「ちょ……っ、ちょっと、待って。いきなり何なんだよ」
 引き立たれるように歩かされ、悟空は慌てて声をあげる。
「大地の御子。あなたの力は、もっと人々のために使ったほうがいい。そのためにこそ、大地はあなたを遣わしたのだから。私ならその手助けができる。ううん、私でなければできない」
 誇らしげにまっすぐ悟空を見て少女は言う。
「……えぇっと?」
 だが、言われたことの意味がわからず、悟空の目は点になる。
「あなたには自覚がないのね。やはり、あの方では駄目。ご自分の従者として扱うことしかしないから、こんなことになる」
「あの方?」
 ふっと三蔵の顔が浮かび、悟空は掴まれていた手を振り払った。
「思い出した。君、前に妖怪に襲われてた子だね。あの方では駄目ってどういう意味だよ」
「……思い出したって、今まで、わかってなかったの? あなたと私が会ったとき、大地に花が咲いたでしょ。まるで祝福するかのように」
「花? 花はいつだって咲くけど。そんなことより――」
「そうじゃなくて、あなたと私が会ったときって言ってるでしょ」
 強引に少女が悟空の言葉を遮る。
「だから、私ならあなたの大地に働きかける力を引き出せる。そして、大地を癒して、多くの人たちの役に立てる。あの方じゃ駄目っていうのは、あの方が自分のためにしかその力を利用しようとしていないってこと」
「……それ、三蔵に言ったのか?」
 悟空が静かに問いかけた。
 そういえば、この少女は助け出されたあと、三蔵と少し話をしていた、と悟空は思い出した。
 三蔵と女の子が並んでいる絵というのは、あまり見たことがなかったので、なんか珍しいな、と思ったのが記憶に残っている。
「えぇ。でも、勝手についてきてるだけだって。そんなことを言って、体よくあなたの力を利用しているだけ。ね、三蔵法師さまだからって、従うことはないのよ。あなたにはあなたの使命があるんだから」
「そんなの知らない」
「そうね。無理もないわ。今までそんなこと、教えてくれる人なんていなかったでしょうから。でも、大丈夫。これからは、私が――」
「そういう意味じゃない。使命なんて、知ったこっちゃないってこと」
「え――?」
「多くの人たちの役に立つより、三蔵の役に立ちたいから。ただ一人、三蔵の役に立てればいい。俺が三蔵についていくのは、三蔵が三蔵法師だからってわけじゃなくて、三蔵が三蔵だから、だよ」
 きっぱりと言い切る悟空に、少女は驚愕の表情を浮かべる。
「なんてこと。ここまで毒されてるなんて。でも、すぐにわかるわ。あの人よりも私のほうがあなたには相応しいんだって」
「君じゃ無理」
 ふっとため息をついて、悟空は一言のもとに切って捨てる。
「俺の何もかもを受け入れるのは、君じゃ無理だよ。だって――」
 突然、悟空の目が鋭く輝いた。
 そして、いきなり少女を男の方に突き飛ばす。受け止めた男とともに、少女は地面へと倒れ込んだ。
 と、同時に、悟空は一歩後退して身を仰け反らせ、襲ってきた剣先を間一髪で避けた。何本かの髪の毛が、宙を舞う。
 妖怪の襲撃。
 悟空にとっては日常茶飯事だ。不意をついたつもりだろうが、一瞬で戦闘態勢に移行する。
 後退から前進へ。すばやく身を転じ、剣を奪い取る。と、別方向からさらに三人が襲い掛かってきた。
 だが――。
 血飛沫をあげ、全員が地面に倒れるまで、ものの三十秒とかからなかった。
 悟空は興味なさげに、手にしていた剣を投げ捨てた。
 ポタリ、と髪の先から、避けきれずに浴びた血が滴り落ちた。
「ひっ……」
 悟空が顔を向けると、少女が怯えたような声をあげた。
 驚愕と恐怖。その目には見覚えがあった。
「ね。だから、無理って言った」
 淡々と悟空は言う。
 それくらいで心が傷つけられることはない。寺院にいた頃、散々向けられていた視線と同じ。あれにはそのうえ、嫌悪も混じっていた。
 でも、三蔵がいたから。いつでも、変わらずにそこにいてくれたから。今も――。
 悟空は、微かに笑みを浮かべ、ふと地面に目を転じた。
 この間の時は、如意棒を使ったから、死体といってもこんなに血は流れていなかった。
 否。この少女は、地面に倒れ伏している妖怪など、見向きもしなかったから、『死んでいる』ということがわかっていなかったのかもしれない。
 だけど今は、如意棒を召喚している暇もなかった。
 そして、殺らなければ、殺られるのだ――。
「俺と一緒に行くってことは、こういう俺も受け入れなきゃいけない。もっと、もっと怖いのもね」
 額の金鈷が外れたときの自分。
 覚えてはいないけれど、凄まじい破壊の力を躊躇いもなく使う、もう一人の自分。
 正面きって、対峙できる人間など――。
「……でもっ」
 己の使命に固執するのか。震える声で少女が反論しようとする。
「花はね、いつでも咲くんだよ」
 やんわりと、封じ込めるように悟空は言い、近くの木に手を伸ばした。
 赤く染まった手の色を写し取ったかのような鮮やかな赤い花が開いていく。
「ごめんね」
 静かにそう言うと、悟空は少女に背を向けた。