序曲〜prelude (6)


 そして、8月の最後の日。
 悟空は、三蔵にと楽譜を差し出した。

「できたのか?」
「うん」

 ざっと三蔵が最後まで譜面を見たのを確認してから、悟空はピアノに指を滑らせた。

 奏でるメロディ。
 低く、三蔵の声が加わる。
 音と声は絡み合うようにして、旋律を作り上げていく。

 最後の鍵が押され、余韻が消えると、ほっと悟空がため息をついた。
 ふわりと、三蔵が後ろから抱きしめる。

「あのね、三蔵……、あの……」

 何事か言いかけた悟空の言葉は、首筋に三蔵の唇が触れてきたことで遮られる。
 熱を持って、甘く震えだした体を三蔵は抱きしめた。


□ ■ □


 その夜は、《ou topos》のライブの日だった。
 急遽、決まったものだと、悟空はベッドの上で聞かされた。
 見たいか、と聞かれて、思いっきり頷いたら、三蔵がチケットを渡してくれた。

 そして、会場について、あまりの人の多さに悟空は驚いた。
 そこは、この間のようなライブハウスではなく、小さくはあったが、れっきとしたコンサートホールだった。
 ずっと三蔵の実家にいて、コンビニのバイトに行くぐらいしか外に出なかった悟空は知らなかったが、《ou topos》は現在、人気急上昇中で、注目の的であるようだった。

 周囲から漏れ聞こえてくる話によると、《ou topos》の曲が夏から始まったドラマの挿入歌に使われたのが発端らしい。一度しか流れていないにも関わらず、曲名と歌っている人間についての問い合わせが殺到した。
 もともと人気の俳優を配したドラマで視聴率が高かったこともある。それに、作中、もっとも印象的なシーンに使われたおかげもある。
 だが、耳に残るメロディラインとボーカルの声。
 それは紛れもなく、《ou topos》の実力でもあった。

 やがて、この問い合わせに比例して、彼らの曲と彼ら自身がメディアに出る機会が多くなっていった。
 となると、メンバーの顔が浸透していく。ボーカルのみならず、揃いも揃って美形だとくれば、間近でみたいと思うのも道理であった。
 そういうわけで、このライブは突発的に決まったものだった。

 会場に渦巻く熱気。
 盛り上がる周囲とは逆に悟空の気持ちは沈んでいく。
 ステージの上で歌う姿を見ながら、急に自分と三蔵の距離を思い知らされたような気がしていた。


□ ■ □


 ライブが終わり、帰ろうとしたところ、悟空は女性に呼び止められた。《ou topos》のマネージャーだと名刺とともに、自己紹介され、三蔵が呼んでいるからと、と言われた。
 なんとなく重い足取りで、悟空は女性についていった。

 途中、ステージ裏を通りかかると、そこに三蔵の姿があった。
 三蔵ともう一人。とても綺麗な女性――。
 芸能界に疎い悟空でも目にしたことのある、女性にも男性にも人気のモデルであった。

 凄くお似合い。
 自然とそう思った。
 綺麗で夢のようで、そこだけ別の空間のようだった。

「……どのくらい続くかね、アレ」

 と声が聞こえてきた。
 程近くに、同じように二人を見つめている男性が二人いた。

「三蔵サマってば、飽きっぽいからなぁ。この間の――なんつったっけ、可愛い子。1か月と持たなかったんじゃねぇ?」
「その言い方、悪意がこもってませんか?」
「少し、な。」

 クスリと最初に言い出した男性が笑う。

「だけど、三蔵も、もうちょっとイロイロ考えた方がいいと思うぜ? そのうち刺されたりして」
「うーん。ないとは言い切れませんねぇ……」

 二人の話はまだ続いていたが、悟空の耳には入ってこなかった。
 悟空は、後退りをした。

「すみません。俺、やっぱり帰ります」

 悟空は呟いた。

「明日っから学校だってこと、すっかり忘れてて。いろいろやってないこととか、準備とかがあるんで」

 引き止めるような言葉を言いかける女性を後に残して、悟空は身を翻した。


□ ■ □


 「さ、て……と」

 パタンとドアを閉めて、鍵をし、封筒に鍵を入れる。
 涙が溢れてきそうになって、慌てて上を向いて、今、自分が出てきた家を見上げた。

 ここで過ごした、様々な甘い思い出が蘇る。
 だけど、それは夢。
 でなければ、何かの間違いだったのだ。

 あんなに綺麗な人が、自分なんかを相手にするはずがない。
 曲ができるまでの間の慰み……たぶん、そんなもの。
 だから、もういらないと言われる前に、出て行かなくては。
 もういらないと言われたら――。
 直接、はっきりと、いらないと言われたら。
 絶対に、立ち直れない。

 悟空は大きく息をついて、涙を堰きとめると、家に背をむけた。
 門をくぐり、ポストの中に鍵入りの封筒を入れて。
 そして、もう振り返りもせずに歩き出した。