序曲〜prelude (7)


 1週間がすぎた。

 引き裂かれるような胸の痛みは慣れることはなかったが、それでもそれをずっと抱えていくのだと受け入れることはできた。
 両親が自分を置いていってしまったときのように。
 受け入れるしか道はないのだから。


「お疲れさまでした」

 声をかけて、悟空はコンビニの従業員室を後にした。
 ふっと、わけもなくため息をついて、裏口の扉を開け。
 そこに予期せぬ姿を見つけて、立ち尽くした。

「……お前、1週間も来れないほど、忙しいのか」

 目の前に佇む相手から、静かな怒りの声が発せられた。

「一体、どういうつもりなんだ? これ、置いて出て行くなんて」

 悟空が鍵を入れた封筒が、目の前に突きつけられる。

「さん……ぞ……」

 悟空は震えるような声をあげた。

「なんで……?」
「なんで、じゃねぇよ。それはこっちが聞きたい。本当にどういうつもりなんだ?」

 悟空の顔がみるみるうちに青ざめていく。それから、険しい表情の三蔵を、直視できずに視線をさげた。

「……8月の終わりまでの……曲ができるまでの約束だったから……」

 しばらくの間のあとで、ポツリと悟空が呟いた。

「だから、出ていったのか? お前にとっては、それっきりですむ話だったのか」

 ビクンと悟空の肩が揺れた。

「……だって、約束……」

 怯えたような、細い声がした。
 それを聞いて、ふいに三蔵の怒りが冷めた。

 悟空が姿を見せなくなってから1週間。
 最初の2、3日は学校も始まったから、忙しいのだと思って、あまり気にしていなかった。
 だが、日が経つにつれ、何の連絡も寄こさずに放っておかれることに怒りが募ってきた。
 そして、今日、ようやくポストに入っていた鍵を見つけ、どういうことなのか問い質そうと思い、悟空のアパートに向かった。留守だとわかり、そのままバイト先に足を向けた。
 理由を聞きだすまでは、いてもたってもいられなかったから。

 だが、悟空は曲ができるまでの8月末までの約束だったから、と言う。
 それで出て行って、それで会いに来ない。
 確かにそういう約束だった。
 悟空はそれを律儀に守っただけだ。
 つまりは、悟空にとっては、それだけですむ話だったのだろう。
 もう二度と会えなくてもすむような軽い関係。

 手に入れたと思っていた。
 だが、最初から、悟空の方にそんな気持ちがなかったのだとしたら。
 それは、なんと滑稽なことだろう。
 三蔵はふっとため息をついた。

「悪かった……。責めるつもりはなかった」

 悟空の気持ちが自分にないとわかっても、それでもこれ以上、怯えさせることも傷つけることもしたくはなかった。
 悟空と過ごした日々は、三蔵にとって、大切なものとなっていた。
 それを、壊してしまいたくはなかった。

 それなのに、自分のうちに沸きあがってくるのは、独占欲。
 そんなものが自分にあるとは思っていなかったもの。
 このままここにいれば、その独占欲が噴き出して、酷い言葉を投げつけそうだった。
 だから、踵を返そうとした。だが。

「……それしか、なかったから……」

 ほとんど消え入りそうな声が聞こえてきた。
 もう一度、振り返ると、ポタッと、悟空の足元に雫が落ちていくのが見えた。

「悟空……?」

 純粋に驚いた。
 悟空は、いつも笑っていたから。
 涙を流すことなど考えたこともなかった。

「もういらないって……言われるのは、やだった……」

 泣き声を出さないようにするためか。
 悟空が口に手を当てる。
 震える肩と、くぐもった嗚咽。
 こんな泣き方をするほどの孤独を、笑顔の裏に隠していたのだろうか。

「いらないなんて、言ってねぇだろう」

 そんな風に泣かせておきたくなくて、三蔵は悟空を抱き寄せた。

「確かに曲は8月までっていうや約束だったが、それで、いきなり8月末でさよならってことには、ならないだろう」
「でも、もう用はない……から」
「あのなぁ。用があるとかねぇとかいう問題じゃねぇだろうが」
「……いらなく……ない……の?」

 腕の中から、悟空が見上げてきた。
 泣いているせいか、口調が幾分幼く感じられる。

「俺は……いらなく、ない?」
「最初から、いらないなんて言ってねぇよ。曲だけの話で、8月末で手を切るつもりなら、あんなことはしない。それくらいわかれ」
「わかんない……もん……。だって、言ってくれなきゃ……」

 ひっくと、肩を震わせて、新たな涙が悟空の目に浮かぶ。

「何も……言ってくれないから……だから」

 言われて、初めて気づいた。
 抱きたい、とは言ったが、あとは何ひとつ、甘い言葉のひとつもかけていなかったことに。
 悟空にとっては、抱きたいと言われただけの――。
 ただ、それだけの――。

「それは酷いですね」

 と、突然、第三者の声がした。