思ひめし花の色 (7)


 早すぎる。

 人込みを抜けて走りながら、悟空は考えていた。
 光明から連絡がきたのはついさっきだ。たぶん、こうなることを予想して、その前から気づかれないように注意して、つけていたんだろう。
 とりあえず人のいないところにいかなくては。
 多少のことであれば『事故』で片付けてしまうような連中だ。他人を巻き込むわけにはいかない。

 遊園地を飛び出て、開発中のビルが立ち並ぶ区域にと足を向ける。
 足には自信があった。
 もうだいぶ追っ手との距離は開いているはずだ。

 周囲に人の気配がないのを確認して、悟空は、自分の背丈よりの高くに張り巡らされた壁を身軽に乗り越えると、まだ骨組みだけの建物の一角に身を隠した。
 ここで追っ手をやり過ごして、それから、光明に連絡して迎えに来てもらう。
 それが最善の方法。

 大きく深呼吸をして、息を整える。
 今までにも、幾度か危険な目には合っていた。
 覚悟もしている。だから、大丈夫。

 気を落ち着けようとしながら、少し強張ってしまっている手を結んだり開いたりする。
 いざというときに体が動かないようでは困る。
 いや、困るだけではすまない――。

 手の動きが止まった。
 悟空は視線を落とし、目を凝らすように、じっと手のひらを見つめた。

 この手。
 この手は――。

 それから、ぎゅっと手を握り締める。

 ダメだ。
 と、頭の中で自分を戒める。
 今はダメだ、そんなことを考えては。
 もっと違う――。
 もっと、違う、なにか。

 綺麗なものを。

 そこで、ふいに三蔵の姿が頭に浮かんだ。

 綺麗な人。

 ふっと、悟空の体から余分な力が抜けた。
 脳裏に浮かぶその姿に、そんな場合ではないのに、自然と笑みが浮かんでくる。

 本当に綺麗な人だった。

 あんなに煌びやかな、宝石のような光彩を放つ夜景をバックにしても、まったく色あせないその姿。それどころか、光はその美貌にいっそう華を添え、淡く輝く金色の髪が夢のように見えた。
 そして、その顔が間近に迫って――。

 そのときのことを思い出し、悟空の心臓は鼓動をひとつ、大きく跳ね上げた。

 抱き寄せられた。
 顔が近づいてきた。
 そして、唇に吐息を感じた。

 ぎゅっと、自分自身を抱きかかえるように、手を交差させて自分の腕を掴む。

 ヘンだ。
 絶対に、ヘンだ。
 あの人に対して、こんな気持ちを覚えることは、本当にヘンなことだ。
 だけど、初めて見たときから。
 綺麗だ、というだけではなく。

 ――惹かれていた。

 姿だけではなく、その存在自体に。

 でも。

 悟空は、乱れる心臓を宥めるように、大きく息をついた。
 それはどこか切なげなため息にも似ていた。

 でも、封印しなくてはならない、この想いは。たとえ、ここから無事に帰れたとしても。

 ぎゅっと目を瞑って、その姿を脳裏から消そうとする。
 と、その耳に、突然、足音が聞こえてきた。
 一瞬で今まで考えていたことのすべてを忘れ、体を緊張させる。だけど、いつでも動けるように。反応できるように。
 危険を前にすると、かえって体が滑らかに動く。先ほどまでの強張りは嘘のように消えていた。
 それは長年の間に培ってきたもの。

 足音は近づいてくる。
 息を殺し、柱の影に身を潜め、悟空はじっとその足音を耳で追った。
 あと三歩。
 あと二歩。
 あと……。
 浅く息を吐き出し、先手必勝と足を踏み出そうとした瞬間。

「出て来い」

 もう聞きなれた、低い声が響いた。