思ひめし花の色 (8)


「な……んで……?」

 声を震わせながら、月明かりの下に出ていた姿はか細く、まるで寄る辺ない子供のように見えた。

 ――出て来い。

 そう言ったのは三蔵自身であったので、こんなところに悟空が潜んでいたことについての驚きはなかった。ただ、その姿に胸が痛んだ。
 太陽の下で、明るく笑っている姿の方が何倍も似合うだろうに。
 なぜ、こんな月明かりの下でひとり震えているのだろうか。

「なんで、あなたがここにいるの? 誰もいなかったのに。誰も追ってくる気配なんてなかったのに」

 問いかけてくる悟空の声がだんだんと大きくなる。三蔵は微かに眉を顰めた。

「静かにしろ」

 そう言って、悟空を抱き寄せる。
 腕の中に閉じ込めることで、その口を封じるかのように。
 と、その意図はとりあえず達したようで、不意に悟空は静かになった。

 腕の中にすっぽりと収まる華奢な体。
 暖かなその存在に、充足感が満ちてくる。まるで、欠けていた大事なものが埋まるような感じがした。
 大きく深呼吸をして、懐深く抱き込み、それから腕の力を少し緩めて、額にかかる茶色の髪をか撫でるようにしてかきあげた。そこに柔らかなキスを落す。
 一瞬、驚いたように悟空の体が強張るが、逃げ出すような気配はない。
 微かに笑みを浮かべ、もう一度、同じところに唇を落として、じっと見つめていると、おずおずと顔があがった。
 目が合うと、そのまま悟空は固まったように動かなくなる。
 息をとめて、視線を逸らすことも忘れたように。
 金色の大きな瞳には、三蔵の姿が映っている。

 悪くない。

 応接室で、観覧車で。
 この瞳を覗きこんだときに湧き上がってきた想いと同じものがあふれてくる。
 本当に悪くない。この瞳のなかに自分の姿を見ることは。

「……なんで」

 囁くような声がした。

「なんで、ここに……」
「呼ばれた」

 簡潔だが、意味のわからない答えに、悟空の表情が訝しげなものにと変わる。
 それを見て、微かに三蔵は笑みを浮かべた。

「俺だってよくわかんねぇよ。呼ばれた、としか思えないんでな。ここにお前がいる気がした」

 そしてまっすぐに悟空の顔を見つめる。

「お前、俺を呼んでいたんじゃねぇのか?」

 悟空が大きく目を見開いた。

「……呼んでない」

 だが、すっと視線を逸らし、俯いて答える。

「そうか? ずっと聞こえていたぞ」
「呼んでなんかないっ!」

 むきになって否定する。
 思わず顔をあげ、勢いのまま詰め寄ろうとして、もう既にこれ以上ないくらいに近づいていることに悟空は気づいた。
 はっとして身を引こうとするが、背中に回されていた手に力が入り、もっと近くにと抱き寄せられた。
 もっと近く。
 二人の距離がないくらいに。

 抵抗する暇もなかった。
 否。
 正確にいえば、抵抗することなど頭から消えていた。

 唇に自分とは違う体温を感じる。柔らかな感触。
 なに? と思う間もなく、今度は軽く舌で舐められた。
 濡れた、暖かな感触に、驚く。
 だが、なにが起こっているのかわからないまま、しっとりと包み込まれるようにまた唇が塞がれる。

「……っ」

 微かに漏れる声。
 それとも息を呑んだ音だろうか。
 どちらか定かではないが、悟空が漏らした声とも吐息とも言えぬものに、煽られるように、三蔵はキスを深くした。

 別に煽ろうとしたわけでないことはわかっている。
 だが、今までに感じたこともない甘美な感覚が押し寄せてきて、理性が押し流されてしまう。

 丁寧に口の中を探ると、驚いたかのように奥にと舌が引っ込んだ。それを絡めとり、誘い出し、舌先を軽く吸うと、戦慄くような震えが全身に走る。
 ぎゅっと、腕に添えられていた手が服を握る。
 未知の感覚に怯えてすがりついてくるように。
 その感覚を与えているのが、すがりついている相手だということを、理解しているのだろうか。
 頼りなく震えるさまが、触れ合った体を通じて直接伝わってくる。

 そう意識したとき、胸にこみあげてきた暖かなものを、どう表現したらいいのだろう。
 それは今まで覚えたことものない感情。
 一番、近い言葉は。

 愛しい、だろうか。

 ゆっくりとあやすように口内をかき回す。
 深いキスに、柔らかく触れるだけのキスも取り混ぜて、驚かせないよう、怖がらせないよう、ただその暖かなものだけが伝わるように、何度もキスを繰り返す。

「ふ……ぁ……」

 くちゅり、と音をたてて唇を吸い、息継ぎのために浅く離すと甘い声が漏れた。
 もう一度、唇を重ね、唾液を交換するかのように舌を絡める。
 そうやって、深く浅く交わす長いキスからようやく解放すると。

「ふ、ぅ……」

 微かな吐息ともに悟空が倒れ込んできた。
 受け止め、体の力が抜けている悟空を支えてやる。
 と、さらり、と音をたてるかのように長い髪が流れ、細いうなじが露になった。
 まるで誘っているかのような白いうなじに唇を寄せる。

「や……っ」

 鼻に抜けるような甘い声とともに、悟空が無意識のうちに身をよじりながら顔をあげた。
 同時に、自分の声で我に返って、驚いたように口元を手で押さえる。
 クスリ、と笑い、三蔵はその手をどかせると、もう一度唇を塞いだ。軽くキスをしたあとに、あたりに水音が響くくらいの深いキスをする。
 そして、唇をずらしていく。顎の先に、喉に、首筋に。

「ん……っ」

 唇が触れるたびに、体を震わせて、悟空が反応する。
 甘く溶けた頭では、与えられる刺激から逃れる術は思いつかないのだろう。ただ身を震わせるだけで、抵抗らしい抵抗はない。それでも、時折、正気に帰るのか、押しのけようとする手を捕まえて、動きを封じる。
 鎖骨付近まで降りてきた唇はもう一度上へと向かい、首のすぐ後ろ辺りに触れたところで悟空が大きく身を竦めた。

「ぅんっ」

 甘やかというよりは、幾分苦しそうな声があがる。
 まだ快楽に慣れていなくて、どう受け止めていいのかがわからないのだろう。
 そう考え、三蔵は密かに満足そうな笑みを浮かべた。
 誰も触れたことのない無垢な体。
 仮に誰かのものだったとしても、諦める気はまるでなかったのだが。
 耳朶の柔らかい部分を口に含む。

「あ……っ」

 微かに声をあげて逃れようとするのを片腕で抱き込む。
 同時に、もう片方の手を服のボタンにかけた。

「やあ……んっ」

 身じろぎをして、悟空は逃れようとしているが、耳の方に感覚がいっているのだろう。服にかけた手はとくに阻まれることもなく、ボタンを二、三個はずして、内側にと滑り込む。
 するりと肌をたどり、胸のあたりに手が触れたとき。

「……っ!」

 声にならない叫びとともに、三蔵は悟空に突き飛ばされた。
 突然、しかも、かなり強く押された三蔵は、少しむっとして眉間に皺を寄せ、顔をあげる。
 と、そこに見たものは。

 恐怖のために、青ざめるというよりは白くなった悟空の顔。

 服を合わせるように握りしめた手が震えている。
 なにか言おうとするかのように口が開かれるが、震える唇からは声は出ず、悟空はぱっと身を翻すと、その場を逃げるように走り去った。