思ひ初めし花の色 (9)
頭の中に、ガンガンという音が響いていた。
ずっと走り通しで、息が切れ、酸素不足で眩暈がしそうだった。
だが、足を止めることはできなかった。
バレた。
ただ、それだけが頭をめぐっていた。
逃げて。
ひたすら逃げて。
どこに向かっているのかもわからずに逃げて。
そして。
「いたぞっ」
そんな叫びが聞こえてきて、今がどういうときだかを思い出した。
思い出すと同時に腕を掴まれ、勢いのまま振り回され、思いっきり壁にと叩きつけられる。
一瞬、息がつまり、目の前が暗くなった。
ずるずると壁にそって地面に崩れ落ちていく。
「覚悟するんだな」
そして、頭の上から冷たい声が降ってきた。
□ ■ □
ったく、バカが。
呼び止める間もなく飛び出していった悟空を追いかけ、三蔵もビルの外に出る。
こんなときに飛び出していくなんて。
だが、その原因を作った自分も自分だと思うほどには、頭は冷えていた。
追われていることをすっかり失念していたのは、自分も一緒だ。
ただ、目の前の存在が欲しかった。どうしようもなく。
そして、手に入ると思っていた。
だが。
性急すぎたのだろう。
恐怖に青ざめた顔に、胸の奥が痛んだ。
先に、ちゃんと言葉に出してやるべきだったのだ。
不思議とわかる悟空のいる場所に向けて。
鈍い後悔の念とともに、三蔵はさらに足を速めた。
□ ■ □
もう、どうでもいいと思った。
どうせ、もう軽蔑されただろうし、もう二度と顔も見たくないくらいに嫌われたのだろうから。
いっそのこと、このまま死んでしまってもいいと思った。
いや、その方がいいのかもしれない。
地面の冷たさを感じながらも、倒れ伏した悟空は身動きひとつしなかった。
壁に叩きつけられたときに、唇を切ったのだろう。口の中に鉄の味が広がっていたが、それさえももう気にならなかった。
あの綺麗な顔。
あの綺麗な顔が嫌悪に歪むのが、目の前にはっきりと見えるようだった。
そして、あの紫の目に蔑みの色が浮かぶ。
体に受けた痛みのためではなく、悟空は唇を噛み締めた。
「……このまま、殺すだけってのは惜しいな」
と、耳ざわりな声が聞こえてきた。
反射的に顔をあげると、ねばつくような視線で見られているのがわかった。
特に、ボタンが外れて微かに覗く胸元に。
パッと、手で服を掴もうとしたが、その手が地面にと固定される。
上にのしかかられるようにして身動きを封じられる。
掴まれた手。至近距離にある他人の体。
意識した途端、気持ち悪さのために肌が粟立つのを感じた。
「何をしてるんだ。そんな暇はないぞ」
別の声が上から降ってくる。
「仮にも龍の娘だ。食えばなにがしかのご利益があるかもしれないぞ」
下卑た笑いとともに、服に手がかかる。
「やめ……っ!」
自由になる片手で、思いっきり押し返そうとするが、力では敵わない。
音を立てて残っていたボタンが弾けとび、そして。
「お前……」
呆然とした声が響く。
「お前、男……か――」
その言葉とほぼ同時に、悟空は自分の内腿にと手を滑らせ、隠し持っていたナイフを引き抜くと、男の喉元をほぼ水平に薙ぎ払った。
叫び声をあげるかのように男の口が開かれるが音は出ず、代わりに喉と口から血を滴らせ、地面にと倒れる。
返り血をあび、赤く染まった服に頓着せずに、悟空は素早く跳ね起きると、その場にまだいる男二人と対峙した。
さきほどまでの諦めきったような、無力な小娘の表情はもうない。
金色の瞳は強く輝き、どこか野生の獣を思わせた。
一人は身構える間もなく、心臓にナイフを突き立てられ、地面に崩れ落ちる。
そして、もう一人はかろうじて懐から短刀を抜いたものの、振りかざしたその切っ先は、踊るようにしなやかに避ける悟空の体を掠りもしない。悟空は二、三歩後退すると、身を屈め、男の懐に飛び込んだ。そして、ナイフを一閃させる。
パッと血が花のように飛び散り、男は地面にと倒れこんだ。
ふっと、悟空は短く息をつき、昏い目を地面にと向けた。
流れ出る血が地面に染みを作る。
また、殺した――。
苦く思う。
血で汚れた手。
穢れた自分。
どうしようもないことだとはわかっている。
殺さねば、殺される。
そこに説得とか、話し合いなど、存在しないのだから。
だが。
どうして、こんな。
どうして、こんなことをしてまでも、生きているのだろう。
「……っ!」
叫び出したい衝動をこらえ、ポケットから携帯を取り出そうとしたとき。
「悟空」
声が響いた。
「さ……んぞ……」
悟空の手からナイフが滑り落ちた。