39. 伝えたい事はただひとつ(5)
「お前なぁ。泣くか、怒るか、食うか、どれか一つにしたら?」
店の一角で、猛然と目の前の料理を平らげる悟空に向かって、悟浄が呆れたかのように声をかけた。
宿屋を飛び出て、通りを滅茶苦茶に走っていた悟空は、朝帰りでたまたま同じ通りを歩いていた悟浄に行き当たって捕獲された。
悟空は気付いてなかったが、後ろから八戒が追いかけてきていた。
悟浄は、泣いている悟空となんだかちょっと血相を変えた様子の八戒を見て思案するような顔をしたが、口に出した言葉は「メシはもう食ったのか?」だった。
言われて、悟空は急に空腹を覚えた。
悟浄が、そして八戒がいる。そう思うと、先ほどまでの絶望的な気分は幾分治まってきた。二人は三蔵とはまた別の安心感を与えてくれる。
悟空は首を横に振り、三人は近くにあったこの店に入った。
泣いて、怒ってはいるが、ちゃんと食べている。
そんな悟空の様子をみて、悟浄と八戒は顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
まぁ、メシが食えるくらいなら、大丈夫だろう。
悟浄は独り言ち、それから、煙草を燻らせつつ声に出して言った。
「三蔵サマは、あれだ。嫉妬してるんじゃねぇ?」
これまでの間に、悟空と八戒からあらかた事情は聞きだしていた。
さすがに三蔵が悟空をベッドに押し倒した一件については、悟空は自分では言えず、八戒が付け加えたのだが。
それを聞いて、悟浄は意外に思った。
今まで、人前で三蔵がそんな風に見せつけるような行為に及んだことはなかった。
事実、三蔵と悟空がそういうカンケイになったのは、西への旅の最中らしかったが、いつからそうなったのか、全然気がつかなかったくらいだ。
例えば偶然見られたときに悪びれもなく続けるとか、ワザと見える位置にアトを残すとか、そういうことならわかる。
だが、最初から人前で見せつけるように、というのは三蔵らしくなかった。
それだけ余裕がなかったということだろうか。あの三蔵が。
「嫉妬?」
悟浄の言葉に悟空が心底不思議そうな顔をした。箸を持つ手も止まっている。
「無断外泊のうえ、別の人間とベッドに入っているところを目撃すれば、な」
悟空はムッとした顔をした。
「どうしてそういうイヤらしい言い方をするんだよ。琥珀と何かあるわけないだろ」
「そういうのがわからなくなるのが嫉妬って言うの」
悟浄がふぅっと煙を吐き出すと、悟空は途端に嫌な顔をして煙を避けた。
悟空は煙草はあまり好きではない。三蔵の煙草は平気なクセに。
それが何となく面白くなくて、悟浄は時々、ワザと悟空に向かって煙を吐き出す。ついでに悟空に他の匂いをつけるという三蔵にとっての嫌がらせにもなって一石二鳥だ。
といっても、その嫌がらせはたいてい長続きせず、すぐに悟空からはいつものマルボロの香りが漂うようになるのだが。
「三蔵は嫉妬なんかしないよ」
「そんなの、わかんないぞ。三蔵さまだって人間だから……」
「違うよ。そういう意味じゃない。三蔵は嫉妬する必要は全然ないし、そのことを知ってる」
気負いも衒いもない揺るぎない瞳。
「へぇへぇ、ご馳走さま」
悟浄はため息をついて、肩をすくめた。完全にアテられた気分だ。
「でも、そんなに分かり合っているのに、なんで喧嘩なんかするかなぁ」
少し意地悪な気分になって付け加える。
悟空が俯いた。
「分かり合ってなんかいない。少なくても、俺は三蔵のこと、分からない」
何も言ってくれないから。
何も言わなくても分かる。そんな風になりたいと思う。
だけど、現実はそんなに都合よくはいかない。
言ってくれなきゃ、わかんないよ。
悟空の目が再び潤み始めた。
それを見て、八戒が悟浄を軽く睨んだ。悟浄は肩を竦めた。
この親友は悟空には甘い。これ以上泣かせたら、後が怖い。
「でも、三蔵の様子が少しおかしいのには、その子供が関係していると思うのですが」
悟空の気持ちを逸らすかのように八戒が口を開いた。
「それは、そうだと思うけど」
悟空は呟いた。
たぶん、琥珀のことを三蔵はよくは思っていない。
「でも、琥珀が何かするとか、そういうの、全然ないと思うんだけど」
「まぁ、それは……」
そのことについてはまったく同感なので、幾分、歯切れ悪く八戒は答えた。
確かに琥珀は、ただの妖怪の子供に思える。まだ暴走もしていないし、暴走する気配もない。
警戒するようなことは何もない。
それなのに、三蔵はわざわざ自分で悟空を迎えに行くなど、かなり気にしている。端から見ていると嫉妬しているようにしか見えないが、それが悟空の言うとおり嫉妬ではないのなら、一体、何を気にしているのだろう。
かなり気にしている、といえば、逆の意味で悟空もそうだ。
「逆に悟空、あなたは随分とあの子供に肩入れしてますよね。何故です?」
「それは……」
悟空は言い淀んだ。
自分に似ているから。
あの岩牢にいた頃の自分と。ずっと、誰かが来てくれるのを待っていた自分と。
あの時の孤独を言葉にする術を知らない。
言葉にできたとしても、それが何になるのだろう。伝えることに意味はない。欲しいのは、慰めではないから。
欲しいのは、確かな温もり。一人ではないと思えること。
そして、それはきっといつか、琥珀にも与えられる。
いつかきっと迎えはくる。
自分にとっての三蔵のような人がきっと琥珀にもいる。
でも、今は。
今は、あの孤独の中。
――三蔵。
三蔵には、それがわかるはずなのに。
俺と琥珀は同じなのだとわかるはずなのに。
どうして?
悟空は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは三蔵の姿。
手を差し伸べてくれた、その姿。
だけど、遠い。今は、凄く遠い。
と、不意に袖を引かれた。悟空は目を開け、そちらを見て驚いた。
「琥珀?」
頭からすっぽりとマントを被って耳を隠し、頬に大きな絆創膏を貼った琥珀がそこにいた。
「良かった。見つかって」
琥珀はほっとしたような笑顔を浮かべた。
「なんで? というより、大丈夫なの?」
悟空は辺りをそっと窺った。こちらに注目している人は誰もいない。
「土砂崩れがあったみたいだって聞いたから、悟空さん、まだこの町にいるかもって思って。見せたいものがあるんです。どうしても悟空さんに見てもらいたいものが」
「何?」
「それは来ていただければわかります」
琥珀は両手で悟空の腕を掴んで引いた。つられるかのように、悟空は席から立ち上がった。
「おい、小猿ちゃん」
「悟空」
悟浄と八戒も席を立った。
「すみません。悟空さんだけに見せたいんです」
だが、琥珀はそれを制した。
悟空は、琥珀を見下ろした。視線を感じたのか、琥珀も悟空を見た。
見上げてくる真剣な瞳。
悟空は、ふっと笑みを浮かべた。それから、悟浄と八戒に顔を向けた。
「大丈夫、すぐ戻るから」
琥珀に半ば引きずられるように、悟空は店を後にした。