39. 伝えたい事はただひとつ(6)


 宿屋の一室。三蔵はベッドに腰をかけていた。
 どうしてもっとうまくできないのだろう、と思う。
 泣かせたくなかった。
 なのに、そのためにしたことで泣かせている。本末転倒もいいところだった。
 三蔵は何でも知っているし、何でもできる。
 たぶん、悟空はそう思っているだろう。今でも。
 だが、それは違う。
 現に、こうして悟空の気を逸らすことすらうまくできない。
 頭の中に響くコエ。
 泣いているそのコエに責められている気になる。事実、責めているのだろうが。
 大嫌い。
 それが、本心から言った言葉ではないのは、わかっていた。
 しかし……。
 と、突然、三蔵は違和感を覚えた。
 それは、あまりに突然のことで、三蔵は顔をあげた。宙に視線を走らせる。
 ――コエが聞こえなくなっていた。
 胸の中に嫌な感じが広がっていく。
 険しい顔で三蔵が立ち上がろうとしたとき、唐突に目の前に琥珀が現れた。
「助けて!」
 琥珀は、必死の表情で訴え、そして。
 現れたのと同じように、一瞬で掻き消えた。
 三蔵は、固い表情を浮かべると立ち上がった。

 琥珀は、自分の家の裏にと悟空を導いた。
 そこにはガラス張りの建物があった。二重になっている扉をあけると。
「凄い……」
 悟空はそう呟いて、絶句した。
 外からも緑が見えてそこが温室だとわかっていたが、中に入るとより鮮やかな緑に目を奪われる。
 そして、何よりも圧倒的な生命の息吹。生きて、存在しているのだと主張しているかのような。
 何故かとても懐かしい感じがした。
 遥か昔、これと同じような生命の力強さを感じていたことがあった。ずっと昔。記憶の奥底に眠るその感覚。
 大地が生命を生み出し、育み、その終わりさえも優しく受け止めていた頃の、生命の躍動感。人間に荒らされて、力を失う前の。
 押し寄せてくる感覚に、悟空は眩暈を覚えた。
「ここには、古代の植物が集められているのです。今ではほとんど見られなくなったようなものが多くあります」
 琥珀はそう言って、温室の中心にと悟空を案内していく。
 芳しい香が漂ってきた。
 知っている筈の香。体内に入り込んで、充満していくよう。だけど、嫌な感じは全然しない。馥郁たる香に柔らかに包まれて、安らかな気持ちになる。
「紫金花です」
 温室の中心には、花をつけた蔓性の植物が天井近くまで高く伸びていた。何本もの蔓が絡み合い、根元は太い幹のようになっている。
 つけている花が変わっていた。外側が紫、内側が黄色と、まるで二重に花を咲かせているかのように見える。香はこの花から漂っていた。
「紫に金の花って書くんです。たぶん、この花の姿からついた名前なんでしょうけど、外側の紫のは本当は花びらではなくて萼なんですよ」
 花の香が薄布のように重なって、意識がくるんでいく。
 説明する琥珀の声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。
 ここには、花と悟空。それしかいない。それ以外は、何も感じられない。
 悟空は魅せられたかのように、その花に向かって足を踏み出した。
 還ろう。
 そう言われた気がした。
「悟空さん?」
 周囲のことなど目に入らなくなってしまったかのような悟空の様子に、琥珀が訝しげな声をかけた。
 悟空は宙に向かって手を伸ばした。
 呼応するかのように、ざわざわと音を立てて蔓が悟空の方に伸びてきた。
「悟空さん?!」
 琥珀の驚愕の叫びとほぼ同時に、悟空は花に包まれた。

 ひとつになろう。
 耳元で甘い声が囁いていた。
 ひとつになろう。遠い昔に、そうだったように。
 ずっと、ずっと、そうだったように。
 還ろう。
 あの頃に。
 この大地に生み落とされる前に。
 甘い囁きが大きくなるにつれ、霞んでいく姿。
 その姿は。
 その姿は、誰――?
 淡い金色の光に包まれた、その姿は……。

 足を速めながら、その存在が消えていくのを感じていた。
 小さくなって、別のものに変貌しようとしているのを。
 もし望むなのならば、いつでも手を離そうと思っていた。
 そのまっすぐな心を歪めることのないように。
 だが、これは違う。
 こんな風に消えてしまうことなど許さない。
 現れようとしているのは、たぶん、封印されている存在。
 それもまた悟空の一部であるだろうに。
 いや、正確に言えば、悟空がそれの一部になるのだろうか。
 それ。
 天に斉しい力を持つという。
 斉天大聖。
 大地が生んだ、人でも妖怪でも、まして神でもない唯一無二の存在。
 だが、知っているのは。
 何にも代え難いものは、それではない。

 三蔵は温室の扉を勢いよく開けた。
 コエはもう聞こえなくなっていたが、そこに悟空がいるのはわかっていた。
 躊躇いもなく奥に進み、そして。
 そして、目に映ったのは。
 まるで、花に抱かれているかのような、悟空の姿だった。

 一瞬で、体中の血が沸騰したかと思った。
 体中に絡みついて、美しい花を咲かせている植物。
 そうされていながら、安心して眠っているかのような顔。
 自分以外の存在に抱かれているのに、そんな顔をみせるなんて――。
 渡さない。
 不意に湧き上がってきた強い感情に突き動かされるかのように、三蔵は花に向かった。
 手を伸ばして、絡みつく蔓を引き剥がそうとした。
 その時。
 突然、右腹に熱い塊を感じた。