39. 伝えたい事はただひとつ(7)


 油断していた、と言えば、確かにそうだ。
 というよりも、何も考えていなかった。ただ蔓を引き剥がそうとすること以外は。
 だから、襲いかかってきた蔓の塊に気がつかなかった。その先がまるで錐のように鋭く尖っていたことにも。
 反射的に押さえた手の指を、生暖かいものが伝って落ちていく。
 三蔵は微かにうめき声をあげて、片膝を地面についた。
 自分の迂闊さを自嘲する。
 そして、こんなにも目の前の存在に固執していたことを改めて思い知らされる。
 目の端に動くものが見えた。
 三蔵は、横に飛んで、伸びてきた蔓を避けた。一転して立ち上がるが、視界がぶれる。足に力を入れて、崩れ落ちそうな体を支えた。
 このまま気を失うわけにはいかなかった。悟空をあの絡みつく蔓から引き離さなければ。
 悟空の封印が解ける前に。悟空という存在が消えてしまわないうちに。
 三蔵は懐から銃を抜いた。
 だが、先ほどの蔓を避けたことで、悟空の姿は今いる位置からは見えなくなってしまっている。このまま撃つわけには行かない。悟空を傷つける恐れがある。とはいえ、移動しようとすれば、また蔓が襲ってくるだろう。
「撃ってください」
 突然、蔓の根元に琥珀が現れた。
「ここを、僕ごと。今はまだこの花は僕と繋がっていますから、僕が消えればその衝撃はこの花に直接伝わって、きっと悟空さんは解放されます」
「撃てば、お前という存在は消えるぞ」
 突然現れた琥珀にも、その言葉の不可解さにも心を動かされた様子もなく三蔵が静かに告げた。
 琥珀の目が少し見開かれた。
「やっぱり、あなたはご存知だったんですね。今の僕が必要のないものだって」
 それから、視線が下に落ちた。
「ごめんなさい。こんな風になるなんて思ってなかったんです。この花――古代の植物が生きるには、今の大地の力は弱いのです。だから、補うものが必要で――。それは強い人の心の力だとわかっていたのに……。こんなの、悟空さんが望んでいなかったのもわかっています。ただ……」
 琥珀は唇を噛みしめて、口をつぐんだ。
 何を言っても言い訳にしか聞こえないと思ったのだろう。
「ただ、花を見せたかったんだろう」
 三蔵は、琥珀の言葉の先を引き取って言った。
 綺麗なものが好きな悟空に、綺麗な花を見せて喜ばせたかっただけなのだろう。
 琥珀が驚いたように顔をあげた。
 その表情の動きはどこか悟空と似ていた。
 この子供が悟空に対して害意を持っていないことは最初からわかっていた。
 ただ、見せたくなかったのだ。この子供の運命を、悟空には。
「あなたが、悟空さんの待ち人で良かった」
 初めて、琥珀は三蔵に対して笑顔を向けた。綺麗な笑顔だった。
「父さんにもう一度、会いたいと思っていましたけど、悟空さんに会えました。それで十分です」
 琥珀は目に強い光を浮かべて、まっすぐに三蔵を見た。そして、静かに告げた。
「撃ってください」
 三蔵は引き金を引いた。

 ふと、悟空は目を開けた。
 誰かに呼ばれたような気がした。
 悟空は、ゆっくりと周囲を見回した。
 誰もいない。気のせい?
 再び、目を閉じようとしたとき、声が聞こえてきた。
 何を言っているのかはわからない。言葉は耳に入ってくるが、意味を成していない。
 そのまま、声の響きだけを追っているうちに、ふっと何もかもが遠くなるような気がした。
 何かに意識を持っていかれるような感じ。
 何か違うものに。自分の中に眠る、もうひとつの存在に。
 特に感慨もなく、それもいいかもしれない、と思った。
「撃てば、お前という存在は消えるぞ」
 だが、別の声がした。
 低く響く、この声。
 知っている筈だ。
 だけど、だけど、誰?
 思い出そうとするが、花の香りが強く漂ってきて、思考を麻痺させる。
 悟空は頭を振って、なんとか意識を集中させようともがく。
 ともすれば、途切れてしまう意識と戦っている最中に、不意に子供の後姿が目に入った。蔓の根元の、木のようになった陰にいて、その姿は半分くらい見えない。
 あれは――。
 あれは、誰?
「撃ってください」
 子供の声が静かに響いた。
 そして、銃声――。

 辺りを引き裂く銃声。
 ゆっくりと崩れ落ちる子供。
 その瞬間、全ての感覚と記憶が戻ってきた。
 悟空は、悲鳴をあげた。
「琥珀?!」
 そばに寄ろうとするが、絡みつく蔓が邪魔をする。
「放せっ!」
 悟空は叫び、手足を滅茶苦茶に振り動かして、ほとんど蔓を引きちぎるようにして、琥珀のもとにと近づいた。
「琥珀、琥珀、琥珀っ!」
 琥珀は目を開けると、悟空を見て微笑んだ。
「よかった……。悟空さん、ありがとう……」
 そして、呟くようにそう言って。
 ふっと、その存在は消えた。
「琥珀……?」
 悟空は呆然と地面を見つめた。確かにここにいたはずなのに。まるで最初からそこには誰もいなかったかのように、何の痕跡も残っていない。
 だが、不思議に思う気持ちよりも、強い感情があった。
「何で?」
 悟空は振り返った。
 そこに三蔵がいるのはわかっていた。
 三蔵の銃でなければ、こんなことはできない。
「何で、殺したの?! 琥珀が何をしたの?! こんな……こんなのって、酷いっ!」
 なじるようにそういい、更に強い言葉を投げつけようとして。
 突然、悟空は気付いた。
 血。
 赤い血。
 白い法衣を染め上げていく赤い――。
 悟空の目が驚愕に大きく見開かれた。
 何故、気がつかなかったのだろう。
 強い花の香りに混じる、血の匂い。
「三蔵っ!」
 三蔵が、地面にと倒れこんだ。
「三蔵、三蔵っ!」
 悟空は三蔵のもとに走り寄り、その体を抱き起こした。
 血の気の失せた唇。閉じられた目。
「三蔵!」
 呼びかけに答えはない。
「嫌だ、三蔵、目を開けて」
 体中から血の気が引いていく。目の前が真っ暗になって震えが走る。
 冷たくなった指先で三蔵に触れる。その頬も同じくらいに冷たい。
「嫌、三蔵……」
 お願い、目を開けて。
 その目に俺を映して。
 大丈夫だって、言って。
 抱きしめて。
「三蔵……」
 このまま。
 もしこのまま、三蔵が目を開けなかったら。
 酷い。大嫌い。
 そんな言葉が、最期の言葉になるの――?
「違う、そんなんじゃない」
 誰よりも、誰よりも、大切な存在。
 強く三蔵を抱きしめる。
 置いていかないと言ってくれたのに。
 それなのに。
「三蔵」
 もう、置いていかれるのは、嫌だ。
 置いていかれるくらいなら。

 ――俺など、いらない。