11:あのね?


「お兄ちゃん」
リビングで新聞を広げ、くつろいでいた三蔵は後ろから声をかけられて振り返った。
夕食の後片付けを終えた悟空がエプロンで手を拭きながら、近づいてくる。
なんのこともない、日常の風景。
だが、なぜか少しだけひっかかりを感じる。
なんだろう、と思っていると、悟空がソファの背もたれに手をかけ、三蔵の方を見て軽く小首を傾げて口を開いた。
「明日っから、金蝉のトコに行っていい?」
「あ?」
突然の言葉に、三蔵の眉間に皺が寄る。
「焔がね、明日から二、三週間、パリに行くんだって。で、その間、金蝉、ひとりになっちゃうから」
小首を傾げたままで悟空はいう。
少し上目遣いで、じっと三蔵を見つめる。
それは。
「……ったく、お前のソレはワザとか?」
「へ?」
昔から、三蔵になにか強請るときの悟空のクセ。
こんな風な可愛らしい様子で強請れば、だれでも簡単に落ちるだろうが、なぜか悟空は三蔵にだけ限定でこういう表情を見せる。
他の人間にこんな表情を見せているところを見たことない。
三蔵が見ていないところで、というのはありえるのだが、それはない、と三蔵は理由もなく確信している。
そしてそう思うことは、なにかしら優越感のようなものをもたらすもので。
目の前の可愛らしい様子と相まって、厄介なことだと思う。
強請られれば、なんでも叶えてやりたくなる。
それでいて、当の本人はまったくの無自覚ときているから、余計に始末におえない。
「べつに金蝉がひとりになるからといって、どうってことないだろ? 子供じゃあるまいし」
「ん〜、普通はそうなんだけどね。でも、金蝉、お湯も沸かせないし、偏食だし、二週間もひとりで放っておいたら餓死するかも」
悟空のいうことは大げさではない。
いまは日本で活動しているが、もともと金蝉はヨーロッパ育ちで、幼少の頃からモデルをしていた。
そのため怪我をする恐れのある家事など一切したことがないのだ。
しかも小さいときから特殊な世界にいるせいか、日常的な感覚が少しずれている。
「デリバリを頼んでもいいし、コンビニでメシを買うくらいできるだろ」
「そゆの、金蝉、できそうにないけど……」
浮世離れしているというか。
そういう人間がいるのか、と驚くほどだが、金蝉はそうなのである。
「それに、金蝉、知らない人に世話を焼かれるの、嫌いだし」
「……面倒なヤツ」
「だから行ってくる。明日っから夏休みだし、金蝉のトコに泊まるからね」
悟空はそういうと、ソファの背もたれから身を起こす。
「おい、ちょっと待て」
その背中に三蔵が声をかける。
「泊まることはねぇだろ」
「結構、金蝉ん家まで遠いし、その方がラクだから。あと、焔の用事って急だったらしくて、焔がいない間にキャンセルできない仕事が何件か入ってるんだ。だから、そっちもついてかなきゃなんないし。撮影とかだったら、遅くなるかもしんないだろ」
「……もう決めてきたみたいないいかただな」
「だって、金蝉の頼みじゃ断れないでしょ」
宥めるような笑みを浮かべて悟空がいう。
その笑みのせいか、金蝉のせいか。
なにが癇に障っているのか、自分でもわからないが、三蔵の機嫌は降下線を辿る。
「俺がいないの、淋しい?」
「べつに」
「だよね。子供じゃないもんね。さて、俺、明日早く出るから、もう風呂入って寝るね。じゃ」
悟空はそういうと部屋から出て行く。
それを見送ったあとも、三蔵の眉間に刻まれた皺は取れることがなかった。